舩坂弘 伝説の男の生涯に迫ります!

舩坂弘 伝説の男

 

「史上最強」という言葉があります。

文字通り、この世で最も「強い」という意味ですが、この言葉がなかなか難儀なものであり、世界中の人間が集まってバトルロイヤルでもやらない限りは、この「最強」を決めることは出来ないでしょう。

それ故に、予想の世界では「ヘヴィ級のチャンピオンが最強」、「力士が最強」、いやいや「特殊部隊に属する者こそが最強」など、様々な意見が飛び交っているのです。

しかし、もし私が史上最強の男は?と尋ねられたとすれば、渋谷センター街に存在した書店の会長・故 舩坂弘(ふなさか ひろし)氏の名を挙げるでしょう。

「何故、本屋さんの会長が最強なのか・・・?」、そんな疑問を持たれた方は、是非この舩坂弘氏の壮絶な生涯に触れてみて頂ければと思います。

本日は、大東亜戦争において「不死身の分隊長」としてその名を馳せ、白兵戦での凄まじい活躍により、個人として唯一公的な戦史にその名を刻む、舩坂弘 伝説の男の人生に迫ってみたいと思います。

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弘の少年時代

舩坂弘は1920年10月30日、栃木県の西方村という場所で産声を上げます。

農家の三男としての誕生でしたが、生まれつきのやんちゃ坊主で、物心が付いた時には、既に村のガキ大将として君臨していたといいます。

しかし、暴れん坊の少年ながら学問に対する興味も人並み外れていたようで、公民学校卒業後は独学で勉強を続け、18歳の時には満蒙学校専門部に入学し更に3年間学業に専念したと言われています。

そして21歳になった時には陸軍に入隊を果たし、満洲の部隊へと配属されることとなりますが、この頃既に剣道・銃剣術の有段者となっており、正に文武両道の好青年という表現が当時の彼にはピッタリでした。

 

兵士として

そんな弘は擲弾筒(グレネードランチャー)部隊の分隊長という役職 に付きますが、本職のグレネード砲はもちろん、通常のピストルの腕前も凄まじい上に、銃剣術も達人レベルの腕前となっており、射撃と銃剣術の両方で勲章を授与される という偉業を達成します。

類稀なる戦闘技術で困難な作戦を次々にこなしていく弘でしたが、日本の戦況は悪化の一途を辿っており、特に南方では負け戦に負け戦を重ねる泥沼の戦いが続けられていました。

軍部はこの南方戦線での巻き返しを図るために、各地の部隊を次々に南方へと派遣していましたが、ついに弘の所属する第59連隊にもその命令が下ることとなったのです。

 

南方へ

そして1944年4月28日、弘たちの部隊は南方パラオのアンガウル島に到着します。

アンガウル島は、アメリカ軍が飛行場建設を企むペリリュー島に近接した島であり、弘たちはペリリュー島防衛部隊の一翼としてこの島の守備に着くこととなったのです。

この島での戦いは、パラオ=マリアナ戦役における最後の戦いとして有名であると共に、日本軍1,250人に対して、アメリカ軍21,000人という圧倒的な兵力の差による壮絶な玉砕戦となったことでも知られる壮絶なものだったのです。

9月17日早朝、アメリカの上陸部隊が島の北東・南西の2地点に上陸したことを合図に、両軍の熾烈な戦いが開始されます。

そして、この日の夕方にはアメリカ軍は島の内部深くまで到達していたといいますから、その戦力の差がどれ程のものであったかを容易にご想像頂けることと思います。

しかしながら、この負け戦の中で弘は凄まじいまでの奮戦を見せるのでした。

海岸から雲霞のように押し寄せる米兵に対して、弘はグレネード弾を次々と発射し、その正確な砲撃により多くのアメリカ兵が屍を晒して行きます。

弘の砲撃によるアメリカの死傷者数は200人を超えると言われ、夕方には彼のグレネードが連続発射の熱で真っ赤に輝いていたと伝わりますから、この戦いが凄まじさが伝わって来ますよね。

それでもアメリカ軍の物量には抗いきれるはずもなく、日本軍はジャングルの奥地へ撤退し、洞窟に立て籠もってのゲリラ戦が開始されることとなりました。

以来、弘たちは洞窟から這い出してはアメリカ兵を攻撃し、再び穴に逃げ込むというヒット&ウェイの戦法を続けますが、返り討ちに遭う仲間も少なくありませんでした。

そして籠城3日目、遂に弘も敵の攻撃で、左太腿に大きな傷を負ってしまいます。

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不死身の分隊長

傷を負って倒れ込む弘でしたが、そこは銃弾が激しく飛び交う戦場、味方も自分のことだけで精一杯であり、誰一人として弘を保護してくれる者はいませんでした。

どうにか最前線から這い出した弘が軍医の診断を受けることが出来たのは、傷を負ってから数時間後であった上、軍医が彼に渡したものは薬ではなく手りゅう弾であったといいます。

「もはや手遅れ、自決せよ!」これが軍医の診断結果でしたが、弘は諦めきることが出来ず、近くに落ちていた日章旗を傷に巻き、這ったまま丸一夜掛けて味方の洞窟陣地まで生還を果たしたのです。

明らかに致命傷の傷を負いながらも帰って来た弘の姿に、仲間達も驚かされますが、一夜明けた朝、彼らは更に驚くものを目にします。

たった一晩眠っただけの弘が、翌朝、脚を引き摺りながらも自力で歩いていたというのです。

そしてここから、不死身の分隊長・舩坂弘の最強伝説が始まります。

戦線に復帰を果たした弘は正に鬼神のような戦いぶりを見せ、三発銃を撃てはその弾丸は三人の敵兵士を仕留め、拳銃の弾が尽きれば敵のマシンガンを奪い取り、更に反撃。

そしてマシンガンの弾が尽きれば、今度は得意の銃剣でバタバタと敵を薙ぎ倒していくというのですから、その強さは只事ではありません。

もちろん、敵からの反撃を受けることもありましたが、致命傷と思われる傷を負っても翌日には何事も無かったかのように戦線に復帰している上、この戦いの間、これを何度も繰り返していたといいますから凄いですよね。

そんな彼を仲間たちは、「不死身の分隊長」「鬼の分隊長」を呼び、大いに勇気付けられたと言います。

後にある人が、弘にこの不死身事件について尋ねたところ、「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」とのみ答えており、本人も生まれ持っての特異体質としか説明の出来ない事態が起こっていたようです。

それでも、日本軍の決定的な不利は何一つ変わらず、遂には水も食料も尽き、仲間もバタバタと命を落としていきます。

何度も奇跡の復活を果たして来た弘も、腹部に深い傷を負い、その傷から蛆虫が湧き出し始めたのを目にし、遂に自決の覚悟を決めます。

手りゅう弾のピンを抜き、自身の身体に強く押し当てますが、どんなに待っても爆発の衝撃を感じることはありませんでした。

そう、弘が使用した手りゅう弾は運良く(運悪く?)不発弾だったのです。

「俺はここまでしても死ねないのか!」、悲しみと同時に何とも言えない寂しい気持ちに襲われた弘は、自決を諦めます。

そして6個もの手りゅう弾を身体に巻き付けると、腹に穴を空けたまま拳銃一丁を持ち、敵陣への決死の切り込みを敢行したのです。

どうせ切り込むなら敵幹部をなるべく道連れに!そう考えた弘は敵陣の奥深くを目指しますが、島の殆どのエリアはアメリカ軍の監視下に置かれており、とてもまともな方法で侵入することは不可能な状況でした。

そこで弘が考えた方法は・・・、何と「ほふく前進」!

敵に見つからぬ様、ひたすら地面をジリジリと這い続けること実に4日目、遂にアメリカ軍司令部に辿り着いたのでした。

司令部近くの茂みに身を隠した弘は、敵の指揮官たちが作戦会議のために集まって来るのを一日千秋の想いで待ち続けます。

そして時は満ち、次々とジープで幹部たちが集まった時、全身を血と泥で染めた男が雄叫びを上げながら突進していったのです。

あまりの出来事に誰一人反応出来ずいる中を突き進む弘でしたが、一人のアメリカ軍兵士が咄嗟に発砲、弾丸は弘の首に見事に命中してしまうのでした。

この事件の処理に当たったアメリカの軍医は弘の死亡を確認、そして服を脱がせてみれば、

首に受けた銃弾の他にも、全身24か所にも及ぶ銃疵や切り傷、骨折等があった上、その手には死後もしっかりと拳銃が握られており、指を引き剥がすのにかなり苦労したとのことでした。

遺体確認には多くの米兵が立ち会っていましたが、軍医はこの弘の死に様を見て「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と叫んだと言われています。

 

弘!再起動!

検死を終えた弘の遺体は米軍の野戦病院内に安置されていたが、死亡確認から3日後、弘と当然むくりと起き上がります。

有り得ないことであるが、彼は突然蘇生したのです。

病院の一室に安置されていたため、敵に命を救われたと思い込んだ弘は、激昂し突然暴れ始めます。

これに驚いた憲兵が駆け付け、銃を向けますが、弘はその銃口を自分の腹に付き付け「早く殺せ!」と怒鳴り散らしました。

暴れる弘をどうにか抑え込んだ米兵たちでしたが、彼らの心には敵としての驚異よりは、同じ兵士としての尊敬の念の方が強かったらしく、「勇敢なる兵士」との愛称を送られている程です。

蘇生を果たした弘は、捕虜としてペリリュー島の収容所に送られて尋問の日々を過ごすことになりますが、この男の闘争心はまだまだ枯れていませんでした。

見張りが手薄になった真夜中を狙って収容所を脱出した弘は、保管されている日本兵の遺体から手りゅう弾などを拾い集め、夜な夜な破壊工作活動を行っていたのです。

手始めにアメリカの兵器庫を爆破し、次に飛行場の爆破を試みますが、2度目の挑戦で米軍の伍長に発見されてしまいました。

戦闘となれば弘の独壇場だったのでしょうが、この伍長は日本語が話せたようですから、恐らくは説得され投降したのでしょう。

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日本への帰国

その後はアメリカ各地の収容所を転々とし、終戦後1946年にようやく日本に帰国を果たすこととなります。

久しぶりの祖国に心躍る弘は、一目散に実家を目指しますが、その途中で自分の名が刻まれた墓を発見します。

実は消息の判らない弘は、既に戦死者として扱われて葬儀も終えられいたのです。

慌てて墓標を抜き去りますが、実家の仏壇には位牌まで用意されいたといいますから、家族はさぞや驚いたことと思われます。

また、隣り近所の住人達も死んだはずの弘が歩いている姿を見て、幽霊だと思い込み、目を合わせて貰えなかったとの逸話まで残っているのです。

復員後は社会人として生活を続けますが、捕虜としてアメリカ各地を見て回った経験から、日本人は更なる学問を行うべきとの信念を持ち、現在の渋谷センター街に書店を開業します。

書店の経営順調でしたが、その傍ら得意だった剣道も続けており、範士十段を取得。

弘と竹刀を交えた者達は、その恐ろしいばかりの気迫に一歩も動くことが出来なかったと後述しています。

また、多くの戦友を失ったアンガウル島での遺骨収集や、慰霊碑の建立にも力を注いでいた上、戦争当時の体験を記した著書の売り上げは全て赤十字に寄付するなど、その高潔な人柄は多くの人から愛され、晩年には「生きている英霊」と渾名される程でした。

しかしながら、流石の弘も老いには抗いきれず、85歳にして腎不全により天寿を全うするのでした。

不死身の分隊長、旧日本軍のターミネーターとして一部に根強いファンを有する舩坂弘氏ですが、

その不死身の伝説以上に人々の胸を打つのは、日本人として戦い続けた彼の気概と、自己の利益を顧みず公のために尽くした高潔な大和魂であったように思えます。

大東亜戦争、最強の兵士「舩坂弘」を誇りある先人の一人として語り継い行きたいと思います。

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