谷豊 快傑ハリマオのモデルとなった男の生涯!

谷豊 快傑ハリマオ

 

皆様は「快傑ハリマオ」という番組をご存じでしょうか。

50歳以上の方の中には懐かしく思われる方もおられるかもしれませんし、それ以下の方でも名前くらいは聞いたことがあるという方もおられるかもしれません。

1960年頃にテレビで放送されていたこの作品は、正義のヒーロー・ハリマオが某国に支配された東南アジアを舞台に、現地の人々のため悪の軍団と戦うという勧善懲悪ものの活劇ドラマです。

実は作中でのハリマオの正体は、日本軍の海軍中尉大友道夫と設定されており、時代設定は第二次大戦頃ということで、日本の東南アジア進出を肯定する作品として、現在では殆ど脚光を浴びることがなくなってしまった作品でもあります。

しかしながら、この怪傑ハリマオ(マレー語で「虎」の意味)、実在した谷 豊(たに ゆたか)というモデルが居たことは、あまり世間で知られていません。

そこで本日は、この谷豊 ハリマオのモデルとなった男の数奇な生涯に迫ってみたいと思います。

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幼少期、青春時代

豊は1911年(明治44年)11月6日、現在の福岡県福岡市にて理髪店を営む谷浦吉の長男として誕生します。

そして豊が2歳の時、父親の意向でイギリス領マラヤトレンガヌ州に移住することとなりました。

マラヤトレンガヌの地で腕白に育っていく豊でしたが、教育は日本で受けるべきという父親の意向により、5歳で再び日本に帰国しますが、小学校を卒業した13歳の時には再度マレーシアへと戻ってしまいます。

帰国後の豊はすっかりマレーシアの地に溶け込み、現地の仲間たちと青春を謳歌したと言われています。

そんな仲間たちの影響から19歳にしてイスラム教に改宗し、もはや見た目では日本人であることが判らない程、マレーシアに順応していくのでした。

やがて20歳になった豊かに、日本から徴兵検査を受けるべしという通達が送られて来ます。

小学生時代を日本で過していたため、国の役に立とうと考えた豊は帰国を決心しますが、徴兵検査の段となりイスラムの教えと、日本の軍隊の体質がどうしても相容れず、検査は不合格となってしまいます。

襲い掛かる悲劇、そして転機

仕方なく豊は、日本で就職することにしますが、彼の一家を悲劇が襲います。

大東亜戦争の切っ掛けともなる満州事変が勃発したのです。

豊の家族は未だにマレーシアで生活していましたが、現地に住む中国人たちが暴徒化し、豊の一家に襲い掛かります。

父と母は難を逃れますが、妹は中国人たちに嬲り殺され、彼らはその遺体を晒し者にするという暴挙に出たのです。

この報せを聞き、怒り狂った豊は日本に避難する両親と入れ違いに、マレーシアに乗り込み、妹の復讐のため中国人(華僑)を専門に襲う盗賊団の首領となります。

次々と中国人たちに報復を行っていく豊でしたが、遂に現地の警察に逮捕されてしまいます。

当面の牢屋暮らしを覚悟した豊でしたが、時を同じくして大東亜戦戦争が勃発するのでした。

ハリマオ誕生

こうした戦争に突入した日本でしたが、南方進出の足掛かりとして「マレーシア」を最初の攻略目標に掲げます。

そこで日本軍は、諜報部員・神本利男をマレーシアに派遣することにしますが、彼は日本人でありながら盗賊団の首領をしていたという豊の存在に興味を示したのです。

神本は直ぐに現地警察に対して保釈金を支払い、豊を自由の身にした上で、「日本のために働く気は無いか?」と話を持ちかけます。

しかし徴兵検査に落ちた苦い思い出と、マレーシアに骨を埋める覚悟をしていた豊は、神本の誘いに乗り気ではありません。

しかし、何度断っても熱心に誘いを掛けてくる神本の人柄、そして真剣にマレーシアを植民地から解放したいと願う彼の信念に、ついに豊は日本軍への協力を決意します。

バラバラになっていた盗賊団の仲間達に召集を掛けた豊は、盗賊団を再結成しその名を「ハリマオ盗賊団」と名乗ったのです。

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ジットラ攻略作戦

マレーシアに侵攻する日本軍にとって、最大の要所となっていたのがジットラという街でした。

この街はマレー半島北部に位置し、イギリス軍の飛行場への通り道ともなっていましたから、迫り来る日本軍に備え、英国軍はこの街に鉄壁の要塞を築こうとしていたのです。

もしこの要塞(通称 ジットラ・ライン)が完成してしまえば、これを攻略するために膨大な時間を費やすこととなるため、日本軍としては何としてもその完成を遅らせる必要があったのです。

そこで白羽の矢が立ったのが豊のハリマオ盗賊団でした。

彼らは要塞建設の労働力として掻き集められた現地人に混ざって工事現場に侵入し、昼は建築作業、夜は破壊工作という活動を展開します。

折角完成した物が、翌朝には破壊されているのですから工事が捗るはずもなく、遂にこの要塞は日本軍が攻め込んで来る日まで完成を見ることはありませんでした。

そして1941年12月12日、日本軍の猛攻撃の前に、ジットラ・ラインはたった一日で陥落することとなったのです。

その後のハリマオ

以降、ハリマオ盗賊団は藤原岩市率いる日本の特務機関「F機関」の工作部隊として活躍し、南方で快進撃を重ねる日本軍の勝利に貢献して行きます。

しかしながらそんな日々の中、豊は現地で流行っていたマラリアに感染してしまいます。

日本軍はマラリアに良く効く「キニーネ剤」という薬をイギリス軍から奪い、これを大量に保有していたため、神本はこれを飲むよう豊かに勧めますが、彼は「白人が作った薬の世話にはなりたくない」とこれを拒絶。

マレーに古来より伝わる民間療法しか行おうとはしませんでした。

そして容体は徐々に悪化して行き、遂には自らの足で歩くことさえ出来ない程に衰弱してしまったのです。

F機関の藤原岩市少佐はこの報告を受け、「直ぐに設備の整った病院に搬送しろ、絶対に死なせるな!」と部下たちに命じたといいます。

その言葉の影には、行動を共にしてきた豊への想いと、戦死であればともかく、病気などで部下を失いたくないという、熱い思いがあったようです。

岩市の指示で、豊は野戦病院に緊急入院することになりますが、もはや彼は手遅れの状態となっていたといいます。

そして瀕死の彼の下に、盟友である神本が駆け付けますが、既に豊は言葉を発することも出来ない状態であり、二人は固く手を握り、見詰め合うのみでした。

この様子を見ていた現地のガイドは後に、二人の間には声にならない言葉が交わされ合っているようだったと語っており、豊は果たせなかったマレーの植民地解放という夢を、神本に託してしたのではないでしょうか。

それから3日後の1942年3月17日、ハリマオは30歳の若さで静かに息を引き取ります。

遺体はイスラム式の葬儀を行った上、埋葬されたといいますが、その場所は未だに判っていません。

しかし豊の死は、 藤原岩市・神本利男の働き掛けにより戦死と扱われることとなり、その御霊は靖国神社にも祀られることとなります。

また神本は、その後も豊の意思を継ぎ、戦場で多くの活躍を遂げますが、奇しくも彼と同じマラリアに感染。

止む無く帰国の途に付く途中、連合国の潜水艦からの攻撃を受け、帰らぬ人となります。(享年39歳)

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谷豊まとめ

ここまで見て来たように、欧米諸国から支配される植民地の人々を救おうと命懸けで戦った、谷豊・神本利男は間違いなく、アジアのヒーローでした。

近年では、マレーシア国内でも豊を再評価するムーブメントが発生し、英雄として扱われている といいます。

それにも係らず、彼の祖国・日本では侵略戦争に加担した者というレッテルを貼られ、日の目を見ることさえ無いのは、実に悲しいことですよね。

アジア人の解放という、高貴な理想のために命を散らした英雄ハリマオを、私たちは次の世代へと語り継いでいかねばならないのです。

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