藤原岩市 アジアの自由のために戦った男

藤原岩市

 

日本がその歴史上、初めて外国に敗北を帰した戦争が大東亜戦争(太平洋戦争)です。

我が国では戦争終結から70年以上経つ現在でも、この戦争に対する評価は大きく分かれてしまっているのが現状です。

ある者は、奢った日本人が世界を相手に始めた侵略戦争であると言い、またある者は、帝国主義の名の下にアジア進出を行った欧米諸国に対する自衛戦争であると言います。

また、大東亜共栄圏を旗印として掲げていたため、アジアの人々を白人の支配から解放するための解放戦争という側面も有しいたといいます。

しかし、学校の授業で習う歴史や、テレビで報道される大東亜戦争の評価は「侵略戦争」という側面ばかりが目立っているように思えてなりません。

そこで本日は、あの戦争が侵略などではなかったことを証明する、「F機関」の活動と、アジアの人々の解放を心より願って行動を続けた「藤原岩市(ふじわら いわいち)」という男の生涯についてお話してみたいと思います。

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挫折を味わった青年時代

藤原岩市は1908年(明治41年)3月1日、現在の兵庫県西脇市に住む藤原為蔵の二男として誕生します。

子供の頃より頭脳明晰な少年として知られており、中学卒業後、陸軍予科士官学校を経て陸軍士官学校に入学し、軍人の道を歩み始めます。

23歳にして士官学校を卒業すると、陸軍少尉に任官され各部隊で職務に当たりますが、エリート士官への登竜門・陸軍大学校への入学も果たし、30歳にてこれを卒業しました。

陸軍大学校を優秀な成績で卒業しているため、本来であれば作戦参謀への道を進みたいと考えていた岩市でしたが、ここで不運に見舞われます。

それは当時、流行っていた腸チフスという伝染病に感染してしまったため、多くのエリート士官や高貴な家柄の者が多い作戦参謀への入所を断られてしまったのです。

そこで岩市に割り振られた部署が「第8課」と呼ばれる諜報活動を行う部署であり、ここから彼の情報部員としての人生が始まることとなります。

 

情報部員として

これまで諜報活動とは無縁の生活を送って来た岩市にとってこの部署での仕事はどれも大変に新鮮なものであったらしく、まるで乾いた砂が水を吸い込むように、諜報活動に関する知識を吸収していったといいます。

一方、当時の日本は大東亜戦争に向けて着々と準備を進めている時期であり、開戦時に展開される予定の南方作戦について、その諜報活動を岩市に任せるとの命令が下されることとなったのです。

未だ開戦前の段階でしたから、日本国内での準備業務が主な仕事でしたが、仕事熱心な岩市は身分を偽って現地に情報収集に向かったり、民間のマスコミや作家なども自分のチームに加えるなど斬新な諜報活動の準備を進めて行きました。

そして開戦が目前に迫る頃には、いち早くバンコクへと入国し、早くも活動を開始します。

岩市に与えられた任務は、バンコクを中心とする南方エリアの現地人たちを日本に呼応させ、彼らを支配する欧米列強と戦うよう仕向けるという内容でした。

既に日本は連合国相手に開戦を果たしていましたし、破竹の勢いで南方への侵攻を進めておりましたので、岩市の主な仕事は戦いに敗れ捕虜となった現地人を味方に引き込むという作業が主なものとなっていたといいます。

これまで培った諜報技術を駆使して、現地民との交渉に当たる岩市でしたが、この頃より彼の胸にある思いが去来し始めたと言います。

それは共に戦う仲間を得るのに、小手先の交渉術や人心掌握術は全く役に立たないという想いでした。

思えば捕虜となった現地民たちも、突然攻め込んで来た西洋人たちに支配され苦汁を舐めさせられて来た者達なのです。

いくら捕虜にしたとは言え、上からの目線で共闘を持ちかけても、本当の意味での信頼関係など芽生えるはずがありません。

そこで彼が執った姿勢は、真に現地民のためを思い、真心を持った姿勢で説得を行うというものでした。

以降、岩市は各地で現地民の蜂起を成功させ、彼の指揮する諜報機関は自由(フリーダム)、友情(フレンドシップ)そして岩市の(藤原)を頭文字にした「F機関」と命名され、大いなる活躍を果たしていくのです。

特にインドで行われた活動においては、インド兵を日本兵と全く同等に扱うという異例の待遇と、ファラパーク演説と呼ばれる岩市の誠意溢れる演説に多くのインド兵がこれに呼応。

何と5万人規模の軍団にまで膨れ上がり、インド国民軍を組織することに成功するのでした。

しかしながら、F機関は少数精鋭の小さな部隊であり、「この人数の軍団の指揮を執るのはあまりに手に余る」ということで、近衛歩兵第5連隊長 岩畔豪雄に機関ごと譲り渡すこととなり、以降は岩畔機関として戦いを進めていくこととなるのでした。

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終戦後の岩市

そして岩市はインドを離れ、スマトラ、ビルマと転戦し日本で終戦を迎えることとなりますが、

彼が離れて以降のインド国民軍は、内部での指揮権争いなどが頻発した上、F機関時代にインド兵のトップを務めていたチャンドラ・ボースが命を落とすなどの不幸に見舞われており、これを耳にした岩市は、深く心を痛めていたといいます。

また、戦後を迎えても岩市に穏やかな日々が訪れることはなかったと言われます。

1945年には、日本と同じく戦いに敗れたインド国民軍の裁判へ、証人として出廷することとなりました。

この裁判はインドで行われましたが、既にインド国内ではイギリスの統治から脱しようとする独立運動が過熱しており、インド国民軍を罰することに反対する十万人以上のデモが発生。

勢いに押された当局は裁判自体を続行出来なくなったと言いますし、岩市は自分が撒いた自由の種がインドの地で確実に芽吹いているのを目の当たりにするのでした。

そして次に岩市を待ち構えていたのは、岩市自身を戦犯として裁く裁判でした。

シンガポールの刑務所にて厳しい尋問を受ける岩市でしたが、結局戦争犯罪にあたる行為は行っていないということで、無罪を勝ち取ります。

しかし、イギリス軍はF機関成功の秘訣を聞き出そうと、引き続き岩市を拘束して取り調べを行ったといいますが、どうやってインド人の心を掴んだかという質問に対しては、「ただただ誠意を持って接することです」と言い放ちます。

この言葉の影には、イギリスの植民地支配について数々の「無慈悲」な点があったことについての、痛烈な皮肉が込められていたのでしょう。

やがて自由の身となった岩市は日本に帰国、陸上自衛隊に入隊して、自衛隊情報部の育成に努めることとなります。

また自衛隊退職後も、インドネシアの独立運動の支援を行うなど、その生涯をアジアの独立のために捧げ、1986年2月24日、静かに息を引き取ったといいます。

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岩市の生涯が教えてくれること

戦争という大きな事件は、多くの人間たちの思惑が複雑に絡み合ったものであり、その評価は非常に困難です。

しかし岩市の生涯を見れば、欧米列強諸国の植民地として虐げられて来たアジアの人々を解放したいという信念の下、ひたすらに努力を続けた日本人が確かに存在したことをご理解頂けるはずです。

そしてあの戦争が無ければ、未だに多くのアジア諸国が、欧米の植民地であり続けたことは、疑いのない事実でしょう。

アジア人によるアジア人の国家を実現しようと奔走した藤原岩市を誇り高き日本人をして再認識すると共に、

「大東亜戦争(太平洋戦争)は単なる侵略戦争である!」という誤った見方が、日本人の心から払拭されることを心より願います。

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