明石元二郎 ロシア革命を引き起こしたスパイの活躍をご紹介!

明石元二郎 ロシア革命

 

ジェームス・ボンド、イーサン・ハント、映画の世界には優れた諜報員、つまりスパイたちが数多く登場しますよね。

あらゆる危険をかい潜り、目的を達成して行く彼らの姿に憧れを抱く方も少なくないことでしょう。

しかしながら、「現実を考えれば、映画のようにドラマチックで華麗なスパイなど存在しないのでは・・・」、正直そんな想いに駆られこともありますよね。

ところが、現実の世界において、まるで物語のような大活躍を演じたスパイは確かに存在しているのです。

そしてその諜報員が日本人であると聞けば、思わず耳を疑ってしまいますよね。

本日は明石元二郎、ロシア革命を引き起こした諜報部員の生涯についてお話してみたいと思います。

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幼少期の元二郎

明石元二郎は、幕末の1864年(元治元年)に現在の福岡県で誕生しました。

父親は福岡藩の侍であり、関ヶ原の戦いや大坂の陣で活躍した戦国武将・明石全登の流れを汲んでいるといいますから、先祖代々の武士の家で育つこととなります。

幼少の頃より頭脳は明晰であった上、常人では考えられない程の集中力を有しており、藩校においても秀才として知られていました。

やがて江戸幕府が倒され、明治維新が起こった後は、19歳で陸軍士官学校に入学し、そのまま軍隊のエリートコースである陸軍大学校へと進み、25歳でこれを卒業しています。

学生時代の元二郎は大変に優秀でありながらも、背が小さく決して美男子ではなかった上に、あまり物事に頓着しない性分の持ち主であったらしく、普段の服装は何時も同じような質素なもの、軍服を着た際にも、飼い猫の毛をたくさん付けたまま現れるといった具合でした。

また、物事に熱中すると、他のことが全く目に入らなくなる性格の持ち主であり、ある時などは議論に熱くなるあまりトイレに行くのを忘れ、小便を垂れ流しながら話を続けていたとの逸話も残っている程です。

諜報部員への道

陸軍大学校卒業後はドイツ留学を経て、フランス領インドシナ、 フィリピンなどで仕事をこなし、1901年(明治34年)37歳にしてフランス公使館付陸軍武官に就任します。

なお、フィリピンに赴いた際の任務は、当時行われていたアメリカ対スペインの戦争(米西戦争)の流れを見届けるというものでしたが、

アメリカ軍が諜報活動によりフィリピン人を決起させ、スペインを攻撃させるという戦法に大いに感銘を受けたと言われており、彼がスパイ活動の重要性に着目したのは、この件が切っ掛けであったとされているのです。

そして1902年(明治35年)、ロシア公使館付の陸軍武官となりますが、ここでイギリスの諜報部員シドニー・ライリーと運命的な出会いを果たすこととなります。

当時の日本とイギリスは同盟関係を結んでおり(日英同盟)、情報交換の場での出会いでしたが、不思議と気の合う二人は仕事という枠を超え、友人としてその仲を深めて行きました。

この交友の中で、元二郎はライリーから諜報活動のノウハウを学んだ上、ロシアと戦争になった場合、戦略上の要所となる旅順要塞の図面なども手に入れることに成功しています。

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日露戦争での活躍

やがて、日本とロシアの関係は更なる悪化をみせ、遂に1904年(明治37年)2月8日、日露戦争が勃発します。

これを受けて元二郎はロシアから脱出し、スウェーデンに拠点を移しますが、ここから彼の本格的なスパイ活動が開始されるのです。

ロシアと戦う祖国日本を如何に諜報活動で支援していくか、元二郎は深く考えを巡らして行きます。

そして導き出した結論は、ロシアの国内を混乱に落とし入れ、その国力を削いでいくという作戦でした。

ロマノフ王朝が収めるロシア帝国の中には、帝政に不満を持つ民族や思想家たちも少なくなかったため、彼らを決起させた上、武器と資金を与えれば内乱が発生し、ロシア帝国にに必ず綻びが生じるはずです。

しかしながら、これを実行するには多額の資金が必要であり、その費用は約100万円程になるだろう元二郎は計算していました。

当時の日本の国家予算は2億3,000万円程と言われており、100万円は今の価値に直すと400億円以上の大金となりますから、そう簡単に準備の出来る金額ではありません。

元二郎は以前より交流のあった山縣有朋にこの資金の捻出を依頼します。

政府内ではこの元二郎の資金要求に難色を示す者も少なくありませんでしたが、山縣有朋は半ば強引にこの資金の準備を行います。

そして資金を得た元二郎は本格的な工作を開始し、アバズレーエフという偽名を使いロシア国内に潜入していきます。

ある時は活動家と接触して武装蜂起を促し、時には政府関係者のパティ―などにも紛れ込んだりと様々な活動を行っていきました。

ロシアで開催されたあるパティ―では、目に留まったロシア人将校とドイツ人将校をマークしていましたが、不意にドイツ人将校が元二郎にフランス語で「ドイツ語が話せるか?」と質問して来ます。

これに対して元二郎はたどたどしいフランス語で「フランス語がやっとです」と答えたところ、将校たちは油断して軍事機密に関する話題をドイツ語で話し始めたといいます。

しかし実は元二郎、フランス語、ロシア語、英語、ドイツ語を完全にマスターしており、まんまと機密情報を盗み取って来たといいますから、スパイの手腕は相当なものであったのでしょう。

やがて元二郎の活動は徐々に効果を顕わし始め、ロシア国内では暴動や武装蜂起が頻発するようになり、この工作がロシア革命の引き金となっていくのでした。

この様な状態となっては、もはやロシアも日本を相手に戦争をしている余裕はなくなって来ますし、実際の戦闘においても日本海海戦での敗北や、旅順要塞の陥落などを受け、ついにロシアは日露戦争に敗れることとなるのです。

日露戦争における敵国攪乱という任務を完璧にこなした明石元二郎でしたが、任務完了時点で最初に用意してもらった100万円の資金の内、27万円が使われずに残っていたといいます。

これは本来、返還する義務のない資金なのですが、元二郎は詳細な明細書を添付して、日本政府に全額返還したといいますから、この逸話からも彼の実直な人柄を窺うことが出来ることと思います。

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その後の元二郎

そしてこの元二郎の功績は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と日本軍の幹部から賞賛されると共に、ドイツ皇帝からも「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」とまで称されているのです。

また後年のロシアにおいては、日露戦争当時の元二郎の活動を諜報活動の模範とする動きもみられたといいますから、彼の行動は世界のスパイ活動全般に大きな影響を及ぼしたといっても過言ではないでしょう。

日露戦争の勝利に大きく貢献した元二郎はその後順調に出世を果たし、師団長を経て、台湾総督に就任し、台湾における日本の政治の基盤を築き上げていくのでした。

周囲からは台湾総督の後は総理大臣にという声も上がっていましたが、日本へ向かう船旅の途中で病を患い、そのまま帰らぬ人となってしまいます。

死後は彼の遺言に従い、心から愛した台湾の地にその遺骨は埋葬され、今も静かに眠り続けているのです。

歴史の影に隠れながらも、アジア人が初めて白人に勝つという日露戦争の勝利に貢献し、ロシア革命の切っ掛けまでも造ってしまった偉大な諜報員・明石元二郎は、世界に誇れる日本人であることは間違いありません。

この男の名を、後世に語り継いで行こうではありませんか。

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