大山倍達 朝鮮生まれの偉大なる日本人

大山倍達 朝鮮

 

皆さんは大山倍達(おおやま ますたつ)という人物をご存じでしょうか。

武道や格闘技に詳しい方なら知らぬ人はいないでしょうが、空手界の巨人、最強を自負する極真空手の創始者と言えば、ピンッとこられる方も多いのではないでしょうか。

そして実はこの方、帰化はしておられますが、元は韓国生まれの生粋の韓国人なのですが、その生涯を見てみると、日本人以上に日本人らしい方であるという、非常に珍しい人物なのです。

そこで本日は、空手家・大山倍達、朝鮮生まれの偉大なる日本人の生涯に迫ってみたいと思います。

出典 最強最後の大山倍達読本 日本スポーツ出版社

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倍達の誕生、武術との出会い

大山倍達氏は1922年、日本統治下の朝鮮半島・全羅北道金堤市にて生を受けました。

当時の名は崔永宜であり、両親は農場を経営しており、多くの使用人を抱えていたといいます。

その使用人中には、身体も大きく喧嘩好きな者も多かった様ですが、ある時、大山少年の前で乱闘騒ぎが勃発しました。

使用人の中でもボスクラスの大男が、新入りの老人相手に喧嘩を吹っかけたのです。

戦う前から結果は目に見えていましたが、次の瞬間、膝を付いて倒れたのは大男の方でした。

老人は借力という武術の達人であり、その業を持って、大男を瞬時に叩きのめしたのです。

大山少年はこれに大変感動し、老人への弟子入りを志願しますが、結局それは叶わなかったものの、この事件が空手家・大山倍達誕生の切っ掛けになったのは間違いないでしょう。

 

青春時代

その後、大山氏は朝鮮を離れ、日本へと移り住むこととなりますが、彼が目指した道は日本軍の軍人となることでした。

空手の修行を積みながらも、アルバイトをこなし、その合間を縫って勉強をするという厳しい生活でしたが、山梨少年航空技術学校で軍人への道を目指して行きます。

大山氏をモデルにした漫画作品「空手バカ一代」では、その後航空兵になり、特攻隊員となったというストーリーになってはいますが、当時の仲間達からの情報では、整備兵として活躍しておられたようです。

但し、特攻隊のお話も全くの創作だった訳ではないらしく、特攻への志願はしたものの国籍の問題で採用されなかったのが真実である模様。

現在では、多くの朝鮮人が無理やり日本につれてこられたなどと言われていますが、大山氏のように自ら特攻に志願する朝鮮人も確実に存在していたのです。

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終戦を迎えて

そして時は流れ、第二次世界大戦は終結し、日本は無条件降伏をすることとなります。

当時、大山氏は厚木航空基地で勤務していましたが、基地内では日本の降伏が受け入れない兵士たちが、敗戦反対運動を行っていましたが、彼もこの運動に精力的に参加していた様です。

その後、大山氏は「アメリカにより押し付けられた日本国憲法の改正を目的とする政治結社」へと加盟し、様々な政治運動へと参加していくのでした。

なおこの当時、既に大山氏の空手の腕前は極まったものとなっていたようで、戦後初めて行われた空手の大会では見事に優勝に輝いたとされます。

空手バカ一代の中では、この時の空手大会が「寸止めルール」であったことに疑問を感じ、山籠もりを経て「直接打撃制(フルコンタクト空手)」を創始したことになっていますが、実情はどうやらかなり異なる模様。

本人が語った話によれば、ある日、街を歩いていた大山氏の目に、驚くべき光景が飛び込んで来たといいます。

それは、日本に駐留するGHQの兵士が、日本人の警察官の服を剥ぎ取り、暴行を加えている姿でした。

この様子に怒り極まった彼は、米兵数人をあっという間に倒してしまったといいます。

しかし時はアメリカの占領下、このままで済むはずもありません。

そこで大山氏は山に籠り、ひたすら空手修行を始めることとなり、下山後、空手家「大山倍達」としての人生を再スタートさせるのです。

 

空手家として

下山後の大山氏は、目白の自宅を利用してた大山道場を経て、極真会館を設立。

やがて池袋に本部道場を開設するなど、空手の普及に尽力して行きます。

また、当時の極真会館の顧問には、総理大臣経験者を含めた自民党系の保守派議員がズラリと名を連ねており、政界からも一目置かれる人物であった様です。

そして極真会館はその後も規模を拡大して行きますが、当時、ある左翼系団体の講演会に居合わせた大山氏は、壇上から演説に対して「それは違う!」と叫びながら、講演会をぶち壊してしまったという逸話も伝わっていますので、空手家として成功を収めた後も、日本の行く末を心底憂いていたことが窺えます。

なお、世界大会の開催に至っては、「もし日本が優勝できない時は切腹する!」との誓いを公言していた上、

優勝候補として有力だった在日韓国人の選手が「韓国代表として大会に出たい」と申し出たのに対して、決してそれを認めなかったとのエピソードも存在。

朝鮮で生まれながらも、誰よりも日本人らしくありたい、そして自分の空手は日本が培ったものであるという強烈な自負が、この行動の裏にはあったのでしょう。

その後、愛弟子たちの確執など様々な出来事を乗り越えながらも、世界100ヵ国以上に支部道場を開設し、大山氏は文字通り空手界のカリスマとなって行きました。

そして平成6年、70歳となった大山氏は肺癌による呼吸不全のため、その波乱に満ちた人生を全うされます。

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大山倍達まとめ

さて、ここまでが現代空手の父と言われる大山倍達氏の生涯です。

大山氏の死後、極真会館は幾度にも渡る分裂を繰り返し、組織の構造や体制も大きく変わってしまっている模様。

されど、日本武術界に大山氏が残した功績は計り知れないものであり、今なお伝説の武人としてその名を語り継がれています。

今回の記事を読めば、大山氏が如何に日本を愛してくれていたかがお解り頂けたことと思いますが、

彼が名乗った「倍達」という名は、伝説の朝鮮古代王朝・倍達国から採られた朝鮮民族の美称を意味するものです。

このことからも、大山氏が日本のみならず、祖国朝鮮にも深い愛情を持っていたことが窺えます。

韓国の方々は従軍慰安婦の問題など、何かと言えば「戦争で日本人は悪逆の限りを尽くした」とおっしゃられますが、そんな日本に対して朝鮮生まれの大山氏がこれ程の愛情を持つことが出来るでしょうか。

また、実はこの大山氏に対する評価も様々な方向性が存在します。

某巨大掲示板などを見ると、「単に日本に尻尾を振っていただけだ」という意見も目に致しますが、私には彼がそんな人物ではないように思えてなりません。

人間の評価は非常に難しいものがありますが、私は大山氏を日本を愛してくれた数少ない韓国人、そして日本のために尽くした日本人として、語り継いで行きたいと思います。

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