東郷平八郎 多くの逸話に彩られた名将の生涯

「世界で最も有名な日本人」そんな言葉を耳にする機会が時折あるかと思います。

そんな際に頭に浮かぶのは、海外リーグで活躍するサッカー選手や、メジャーリーグに挑戦している野球選手の顔であるかと思います。

しかしながら、実際に外国人にこの質問をぶつけた場合、最も多く返ってくる答えとされているのが「アドミラル・トーゴー(東郷提督)」という言葉だそうです。

東郷平八郎 元帥

画像出典 wikipedia 東郷平八郎

東郷提督、すなわち東郷平八郎は今から100年以上前に起こった日本とロシアの戦争、日露戦争の英雄とされている人物です。

では何故、こんなに昔に活躍された方が未だに世界で最も有名な日本人として知られているのでしょう。

本日は世紀の名将 東郷平八郎の生涯に迫ってみたいと思います。

東郷平八郎は江戸時代末期、1848年1月27日(弘化4年)に薩摩藩、現在の鹿児島県の武士の家に生まれます。

武家の子供として少年時代を過ごしますが、時は幕末の動乱期であり、僅か14歳にして薩摩藩とイギリスとの間に生じた薩英戦争(1862年)で初陣を飾ります。

この戦いでは、イギリス軍が圧倒的な勝利を収めて、薩摩藩には甚大な死者と損害が発生していますから、彼の武人としての人生は負け戦から始まったと言えるでしょう。

その後1867年(慶応3年)、19歳にて分家され、一家の主となります。

実はこの平八郎、体格こそ小柄であったものの、大変な美男子として有名であり、女性からの人気も高ったと記録されています。

そして時代は明治維新へと突き進み、戊辰戦争では戦艦の乗組員として遠く函館まで転戦を繰り返していくのでした。

幕府軍に勝利した官軍は、明治政府を立ち上げ、平八郎は海軍にその身を置くこととなって行きます。

スポンサーリンク

 

23歳の若き海軍士官、平八郎にはひとつの大きな夢がありました。

それは海外留学を果たし、見分を広げたいというものでした。

平八郎は夢を叶えるため、討幕の英傑 大久保利通に留学の願いを伝えますが「おしゃべり過ぎる」という理不尽な理由で、この願い出を却下されてしまします。

しかしながら、夢を諦めきれない平八郎は西郷隆盛に頼み込み、ようやくイギリス留学への道を切り開くのでした。

ついに夢を叶え、意気揚々と船に乗り込んだ平八郎でしたが、当時のイギリスでは人種に対する差別も激しく、かなり孤独な留学生時代を送ることとなったようです。

そんな生活の中、平八郎の性格は少しづつ変化を見せていきます。

大久保利通に「おしゃべり過ぎる」評されたキャラクターは、のちに「沈黙の提督」と称される寡黙なものへと変わり、学問においても国際法を収めるなど、秀才としての片鱗を見せ始めます。

そしてイギリス留学を終えての航海中、平八郎の元に驚愕すべき報せが飛び込んで行きます。

平八郎の留学について便宜を図ってくれた西郷隆盛が西南戦争を引き起こし、自害に追い込まれたというです。

この報せを受けた平八郎は「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と語っており、彼の忠義に熱い人柄を窺い知ることが出来ます。

東郷平八郎 日露戦争

帰国を果たした東郷平八郎は、その後も順調に出世を果たしていきますが、1894年(明治27年)日清戦争が勃発します。

日本が勝利を収めたこの戦で、平八郎は、戦艦「浪速」の艦長として豊島沖海戦(高陞号事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍を果たします。

また豊島沖海戦では、停戦警告に応じない商船への攻撃が国際法に違反しない旨を瞬時に判断するなど、その智将ぶりを窺わせる逸話が伝わっています。

その甲斐もあり、1902年(明治33年)に第一艦隊兼連合艦隊司令長官に就任。

このように次々と昇進を果たしていく平八郎に、1904年(明治37年)新たな戦いの舞台が用意されることとなります。

予てより緊張を高めていたロシアとの間に戦争が勃発したのです。(日露戦争)

この戦いでは、旗艦「三笠」の指揮を執り、旅順港攻撃、黄海海戦で活躍を果たし、ついに海軍大将に昇進します。

そして、海軍大将となった東郷平八郎が迎えた大舞台が、奇跡の海戦として名高い「日本海海戦」(1905年5月27日)であったのです。

この海戦は、世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊と、日本の連合艦隊が日本海の制海権を巡って繰り広げた決戦であり、この勝敗が日露戦争の勝敗をも左右すると言われた重要な戦いでした。

日本とロシアの戦力に関しては、やや日本が有利あったとされていますが、相手は無敵を誇るバルチック艦隊であり、これまで黄色人種が白人に勝利したことなど一度も無い時代のことですから、勝敗の行方は全く予想が付きませんでした。

しかしながら、平八郎は戦闘の初期段階で大きなアドバンテージを得ることに成功します。

この時、ロシア艦隊がどの方角から日本海に攻め込んでくるかが全く予想出来ない状態にありましたが、平八郎は世界でも類を見ない哨戒計画を実行し、素早くロシア艦隊の侵入経路を察知することが出来たのです。

日本が戦力で優位に立てたのは、敵の位置を事前に知ることが出来たためであり、もし不意を突かれていれば敗北は必至であったと言われています。

敵の位置を掴んだ平八郎は大本営に対し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」と打電します。

また、自ら指揮を執る艦隊に対しては「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と激を飛ばします。

スポンサーリンク

 

そして5月27日14時頃、本格的な戦闘が開始されます。

日本・ロシアの両軍艦隊は立ての隊列を成しながら、距離を詰めて行きます。

通常であれば、隊列がすれ違い様にして戦闘になだれ込むのですが、日本軍の先頭を走る三笠(平八郎搭乗)がすれ違いギリギリで当然方向転換を行ったのです。

この作戦は後に、丁字戦法、トウゴウ・ターンと呼ばれるもので、敵艦隊の隊列と「T」の字型に対することにより、「―」は横の列での十字砲火が可能、「|」は味方の船が邪魔になり、先頭の艦しか攻撃が出来なくなるという画期的な作戦でした。

もちろん成功すれば、大きな成果を上げられる作戦ですが、最初にターンを行う先頭の艦は敵に集中砲火を浴びる可能性があり、同時に大きなリスクも伴う作戦でした。

その危険な役割を自らの旗艦「三笠」でやってのける点が、平八郎の名将たる所以なのでしょう。

そしてこの作戦は見事な成功を収め、日本はこの海戦に勝利します。

これにより日本海での制海権を抑えた日本軍は、大陸への補給路を確保することに成功し、日露戦争での勝利を捥ぎ取るのでした。

東郷平八郎 バルチック艦隊

この戦いは、黄色人種が初めて白人に勝利した戦争となり、日本の国際的地位を「五大国」の一員へと押し上げる結果となります。

また、この勝利は植民地支配を受けているアジアの国々を大いに勇気付けることとなりましたし、西洋人からも東郷の見事な戦いぶりを「東洋のネルソン」と呼んで賛美するなど、世界中から大きな反響を得ることとなっていったのです。

これに加え日本軍は、海戦で海に投げ出されたロシア兵を残らず救助し、日本人が戦争中のため十分な食事が摂れない中、捕虜たちには十分な食事を与えるなどの紳士的な対応は現代でも高い評価を得ている上、捕虜となったロシアの提督に対して、平八郎自ら見舞いに訪れるなど、日本人の、そして平八郎の人間性の高さを示す逸話が数多く伝わっていることも、この戦争の特色のひとつに挙げられるでしょう。

なお、この活躍によりアメリカのタイム誌の表紙を平八郎が飾ることにもなり、日本人第一号のカバーパーソンとして記録に残されているのです。

その後も海軍で活躍した平八郎でしたが、引退後は盆栽と碁を楽しみ、時には自ら七輪を用いて魚を焼くといった生活を送っていたとされています。

そして1934年(昭和9年)5月30日、膀胱ガンのため満86歳でこの世を去ったのでした。

亡くなった後も軍神として、軍内部では彼の信奉者も多かった言いますし、大東亜戦争(太平洋戦争)で日本が破れ、アメリカの占領軍がやって来た際も、多くの軍隊関連の記念碑などが破壊される中、東郷平八郎の係るモニュメントだけは難を逃れたという逸話からも、世界にその名を知られる名将ぶりを窺い知ることが出来るでしょう。

とかく旧日本軍に係る出来事、人物は悪の権化のような扱いを受ける現代の日本ですが、多くの逸話に彩られた名将・東郷平八郎のように世界に誇れる日本人が居たこと決して忘れてはならないのです。

日清・日露戦争を侵略戦争と位置付ける者達もおられますが、平八郎にしてみれば、日本を守るために幕末の戦乱を乗り越え、列強からの侵略を防ぐために中国とロシアに戦いを挑んだに過ぎません。

無抵抗でいれば平和に過ごせる。

このような妄想を平八郎が聞いたら、さぞ憤慨されることでしょう。

私たちは、彼らの命を張った戦いのお蔭で、今の平和の世があることを肝に銘じて生きて行かねばならないのではないでしょうか。

スポンサーリンク

 

 

出典 wikipedia 東郷平八郎

コメントは受け付けていません。

サブコンテンツ

アクセスカウンター

  • 71今日の訪問者数:
  • 256昨日の訪問者数:
  • 92今日の閲覧数:
  • 360昨日の閲覧数:
  • 98930総閲覧数:
  • 77804総訪問者数:
  • 3現在オンライン中の人数:

スポンサーリンク

このページの先頭へ