乃木希典 殉死の秘められた理由

乃木神社、乃木公園、乃木会館、乃木坂駅等、大都会東京のど真ん中、赤坂・六本木界隈には「乃木」という名の冠された地名や施設が数多く存在しています。

ご存じの方も多いかとは思いますが、この「乃木」という名称は、明治期に活躍した名将「乃木希典」(のぎ まれすけ)という方の名前に由来するものです。

しかしながら、乃木希典とはどのような人物だったか?という質問にすんなりと答えられる方は、少ないように思えます。

そこで本日は、稀代の名将 乃木希典について記して見たいと思います。

乃木希典 大将

画像出典 wikipedia 乃木希典

乃木希典は1849年12月25日(嘉永2年)に長府藩(長州藩支藩)の馬廻役 乃木希次の三男として江戸にて誕生します。

三男と言いますから、希典には二人の兄が居たのですが、二人は幼くして亡くなっており、その人生は乃木家の長男としてスタートを切ることになります。

そんな生い立ち故に、彼に付けられた幼名は無人(なきと)と言い、「何事も無く育て」という親の強い願いが込められていたのです。

しかしながらこの希典、生まれながらの虚弱体質の持ち主である上、気の弱い性格であったため、周りの子供達からは「無人→泣き人」という渾名を付けられ、いじめられてしまいます。

現在ならば親が心配するところなのでしょうが、そこは江戸時代の父親、弱い息子が悪いと考え厳しい躾を施して行きます。

ある冬の日に、希典が寒いと文句を言ったのを聞いた父親は、井戸に連れていき冷水をぶっかけたというエピソードが伝わっていますから、そのスパルタぶりは半端なものではなかったようです。

そんな乃木家に事件が起こります。

希典10歳の時に、父親の希次が藩の跡目争いのゴタゴタに巻き込まれ失脚し、故郷の山口に帰ることとなってしまうのです。

山口に戻った希典は、父の方針からか漢学や武術、果てには西洋の砲術まで習わされることになりますが、その性格は相変わらずの弱虫だったと伝わります。

そして16歳になった希典は、厳格な父に対し「学者になりたい」と言い出します。

これを聞いた父は烈火の様に怒り出したため、希典は家出を決意し、萩にある親戚の兵学者 玉木文之進に弟子入りしようと試みます。

一度は弟子入りを断られますが、そのまま親戚宅に居ついてしまい、農業を手伝いながら夜は兵学を学ぶと言う修行のような生活を送ります。

この生活が功を奏したのか、希典はみるみる逞しい体付きとなり、立派な青年へと成長を遂げて行きます。

その後は藩校である明倫館にも通い始め、剣術の稽古にも精を出していたようで、後には一刀流の目録を授けられる程の腕前になっています。

そんな希典の成長を待ちわびていたかの様に、時代は倒幕、明治維新に向けて進み始めます。

天皇陛下を担ぎ上げ、新たな国造りを行おうとした長州藩に、幕府からの追悼命令が下るのです。(第二次長州征伐 1865年)

迫りくる幕府軍に対して長州藩は交戦の構えを見せますが、希典も奇兵隊に加わり山縣有朋の下で初陣を飾り、活躍を果たします。

第二次長州征伐以降の幕末の動乱には怪我などの理由で参加することはありませんでしたが、この間もフランス式の兵学を学ぶなど武人としての研鑽を怠ることはありませんでした。

そして1868年、徳川幕府は倒され、明治の世がやって来ます。

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明治政府の下、陸軍に配属された希典は少佐へと大抜擢されますが、この頃より夜遊びを覚え始め、上司の山縣有朋から厳重注意を受ける程でした。

また、時代が明治に移り、国内は安定期を迎えるかと思われましたが、この頃より新政府の体制に不満を持つ武士たちの反乱が頻発するようになります。

軍人の希典は秋月の乱、西南戦争とその鎮圧に当たりますが、秋月の乱では弟が反乱軍に加わり戦死した上、西南戦争では奮闘するものの、軍旗を敵に奪われるという失態を演じてしまい、希典の心は荒んで行きます。

そして戦いを終えて戻って来た希典は、これまで以上に飲み歩くようになり、その遊びぶりは「乃木の豪遊」と名付けられる程の凄まじいものであったと伝わります。

29歳の時には妻「静子」とも結婚し、長男、次男と子宝にも恵まれますが、この荒れた生活が改善することはありませんでした。

しかしそんな希典に転機が訪れます、1887年(明治20年)政府よりドイツへの留学を命令されたのです。

ドイツ留学中の希典の行動はあまり資料が残されていませんが、一年間の留学から戻って来た希典はまるで別人のようになっており、帰国以降は夜の街に繰り出すといった放蕩生活を一切止め、厳しく礼儀正しい軍人へと成長を遂げていたのです。

帰国後に希典が軍に提出した報告書にも、陸軍内の軍規を引き締め、軍人教育に力を入れるよう記されていた上、本人もこの提案を体現するかのように質素倹約・質実剛健な生活を行うようになって行きました。

これまでの人間的な弱さ、迷いを振り払い、心機一転軍人としての道を歩み始めた希典に、再び出撃命令が下されます。

1894年(明治27年)日清戦争が勃発したのです。

この戦いに歩兵第1旅団長として参加した希典は、稀代の名将としての頭角を現し始めます。

破頭山、金州等の戦いで大勝利を収めた上、難攻不落と言われた旅順要塞をたった一日で陥落させてしまったのです。

また蓋平の戦いでは、窮地に陥った第1軍第3師団の救出作戦を成功させるなど、その活躍は正に飛ぶ鳥を落とす勢いのものでした。

そして日本は清に勝利を収め、乃木希典の名はその功労者として人々の心に刻み込まれて行きます。

その後、希典は台湾総督に任じられますが、総督を辞したのちは、様々な事情から3年近くもの間、軍を休職することとなります。

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しかし1904年(明治37年)、希典は再び戦場に立つことになります。

以前から緊張を高めていたロシアとの戦争が勃発したのです。(日露戦争)

この戦いにおいての希典は、第3軍司令官という立場での参戦となりますが、戦地に向かう途中、思いもよらない報せが舞い込んで来ます。

希典に先立ち、戦地に赴いていた長男 勝典が戦死を遂げたというのです。

この報せを東京にいる妻へ知らせた希典でしたが、その内容は「名誉の戦死を喜べ」という彼らしい内容であったと伝わります。

長男の死と言う心の傷を負いながらの参戦となったこの戦いですが、更に過酷な運命が希典を待ち構えていました。

希典に与えられて作戦は、当時難攻不落と恐れられた旅順要塞の攻略でした。

この要塞は鉄条網で周囲を覆い、重火器を取り揃えたロシアの精鋭部隊が守りを固めているという砦であり、「いかなる大敵が来ても3年は持ちこたえる」と謳われる堅牢な代物でした。

そんな鉄壁の要塞に挑むのは、非常にリスキーな作戦と言えましたが、日清戦争の英雄であり、人格者としても評判の希典の下で戦えるという状況は、兵士たちにとって大変に名誉なことであり、死んでも悔いはないという高い士気をもって砦への突撃を繰り替えしていきます。

しかし日本軍の膨大な犠牲にも係らず、旅順要塞はビクともせず、日々戦死者のみが増えていくという、悲惨な戦況が展開されて行きます。

こうした事態に大本営からも希典に対する不満の声が上がり、一般市民も希典の家に石を投げ込んだり、大声で罵声を浴びせるといった者が続出します。

そんな中、更に辛い報せが舞い込みます。

次男の保典が、希典の計画した総攻撃にて戦死したというのです。

これを聞いて、父である希典が冷静でいられるはずがありませんが、彼は「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ」とそっと呟いたと記録されています。

長男戦死に続いて、次男が亡くなったという報せはあっと言う間に日本にももたらされ、乃木邸への嫌がらせは収まったとも言われています。

この様な苦しい戦況の中、ついに旅順要塞に綻びが生じます。

要塞正面のバリケードを突破されたロシア軍は一気に瓦解し、希典を旅順要塞を陥落させることに成功します。

勝利を収めた希典は、要塞を守っていた司令官ステッセリと会見を行いますが、この戦いで次男を亡くしているにも係らず非常に紳士的な対応をし、全世界からの賞賛を浴びることとなります。

乃木希典 明治天皇

戦後の残務を終えた希典は日本への凱旋を果たしますが、多くの若者の命を失わせてしまったことへの自責の念から、「戦死して骨となって帰国したい」「笠でもかぶって帰りたい」と洩らしていたと言われます。

事実、帰国後も祝賀会などへは一切参加せず、戦死させた者達の家族の下へ出向き「乃木があなた方の子弟を殺したにほかならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一命を国に捧げるときもあるでしょうから、そのとき乃木が謝罪したものと思って下さい」と伝えて周りました。

また、明治天皇との謁見の際には「自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたい」と言い出しますが、

陛下は「苦しい心境は理解したが、今は死ぬべき時ではない。どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ」と返答したと伝わります。

このような苦しみを背負いながらも、乃木希典は日本海海戦で大勝利をもたらした東郷平八郎と共に、時代のヒーローとして人気を博して行きます。

そんな折り、希典に学習院院長の職に就かないかとの話が持ち上がります。

これを受けた希典は、学院を全寮制し、厳しい教育理念の徹底を図るなど、教育者としての手腕を発揮して行きます。

剣道教育を重視するなどその指導はかなりハードなものであったようですが、学生たちからは「うちのおやじ」と慕われていたようです。

そして1908年(明治41年)には迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学することとなり、その教育係としても活躍して行きます。

なお、車で通学する迪宮裕仁親王に対して歩いて通学するように指導するなど、未来の天皇陛下に対しても他の子供たちと同様に、厳しく接する希典流の教育は「乃木式教育」として、教育界全体に影響を与えたと言われています。

元陸軍の英雄にして、優れた教育者・・・そんな理想的な老後を送る希典の姿を、多くの人々が目を細めて見ていました。

乃木希典 殉死

そんな中、1912年(明治45年)、明治天皇が崩御されます。

これまで穏やかに歳を重ねているように見えた希典ですが、この件を境にその様子が少しづつ変わっていったと言います。

そして希典は1912年(大正元年)9月13日、明治天皇の葬儀に合わせて、妻・静子と共に自ら命を絶つことになります。

その最後は、明治天皇の写真の前に正座をし、自らの愛刀で腹を十字に裂くという壮絶なものであったと伝わります。

親交の深かった明治天皇への殉死とも言われていますが、日露戦争の後、多くの若者を死なせてしまったことを悔やんで自刃を願い出た際、明治天皇に「どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ」と言われたことを忠実に守ったというのが、乃木希典殉死の本当の理由ともされています。

左翼系の小説家の中には、希典を多くの若者を殺した愚将として扱う者もおりますが、日本を守るため必死に戦い、自らの命令で死んでいった者たちへの重い責任を背負い続けた男を、私は決して愚かであるなどとは思いません。

私は、乃木希典を日本の未来のために命を捧げた真の侍であったと考えます。

もし東京を訪れた際には、乃木神社にお立ち寄り頂き、英霊 乃木希典の御霊に手を合わせてみては如何でしょうか。

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出典 wikipedia 乃木希典

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