山口多聞 最期まで果敢に戦い続けた名将

山口多聞 空母

 

戦後の日本において、日清戦争以降の軍人を評価することはタブー視されている傾向にあります。

これは「日清戦争、日露戦争が先の大戦に連なる、日本の侵略戦争の始まりであり、『これらの戦争で活躍した者たちを英雄視するのは以ての外』である」という自虐的な史観に基づいた考え方によるものです。

しかしながら、これらの戦争は疑う余地のない自衛のための戦争であり、世論の逆風の中にあってもその名を語り継がれる英雄たちが確かに存在しています。

そして世界的に有名な東郷平八郎、乃木希典の両雄程ではないにしろ、多くのファンを擁しているのが、太平洋戦争(正しくは大東亜戦争)で活躍した海軍中将 山口多聞(やまぐち たもん)その人であるのです。

本日はそんな山口多聞、最期まで果敢に戦い続けた名将の実像に迫ってみたいと思います。

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幼少期・青年時代

近年では、某人気マンガの登場人物としても脚光を浴びている山口多聞ですが、まずは生い立ちからその生涯を見て行きましょう。

多聞は1892年(明治25年)8月17日、関ヶ原の合戦では西軍として活躍した戦国武将 山口宗永の子孫、松江藩士山口宗義の三男として生を受けました。

多聞(たもん)という名前は非常に珍しい名前ですが、これは鎌倉時代末期から南北朝時代に掛けて活躍し、後醍醐天皇の側近として武勇を馳せた忠臣・楠木正成の幼名「多聞丸」に由来するものと言われています。

この名前の由来からも、祖国日本のため、天皇陛下のために尽くせという両親の願いを窺い知ることが出来ます。

現存する写真などを見ると非常に穏やかなお顔をした山口多聞ですが、幼い頃より行動力に富み、学業も非常に優秀であったとのこと。

その逸話を証明するように、現在も名門校として有名な開成中学をトップの成績で卒業し、開校以来の秀才と言われた程であったといいます。

中学卒業後は海軍兵学校に進学しますが、そこでも秀才ぶりは健在であり、卒業時の成績は次席(学年2位)であった上、体育で行われる棒倒しや、剣道では抜群の活躍を見せており、文武両道の快男児というのが、この頃の多聞にぴったりの呼び名であったようです。

その後は海軍に入隊を果たし、21歳で少尉、26歳で大尉と順調な昇進を遂げて行きます。

また、1921年(大正10年)29歳の時にはアメリカでの駐在も果たし、その後、1924年(大正13年)には少佐に昇格した上で、海軍の幹部候補となるべく海軍大学校への入学も果たしました。

この頃の多聞について、興味深いエピソードが伝わっています。

海軍大学校での友人 五十嵐恵と共に食事に出掛けた多聞は、注文の際、4人分の食事をオーダーします。

これに驚いた五十嵐が「俺は他で食べて来たので、1人前で充分だ」と伝えますが、多聞は「俺が3人分食べるんだよ」と言い放ち、その言葉通り全ての料理を平らげてしまったと言います。

このエピソードからも多聞の豪快な人物像をご理解頂けることと思います。

山口多聞 ミッドウェー海戦

軍人として

そして1926年(大正15年)、学年トップの成績にて海軍大学校を卒業し、2年後には海軍中佐へと昇進を遂げます。

翌年には、ロンドンで開かれた国際軍縮会議の随行員として参加するなど、軍部の中枢へと食い込んでいくこととなります。

また、この軍縮会議においては山本五十六と共に議決内容に反対を唱えるなど、五十六との関係も密なものになっていったと言います。

しかし、そんな多聞を打ちのめすような悲しい事態が発生します。

多聞40歳の時、妻の敏子が三男を出産するものの、産後の肥立ちが悪く、急死を遂げてしまうのです。

流石の多聞もこれには大きな衝撃を受けたようですが、山本五十六の紹介で再婚を果たし、後妻とも良好な夫婦関係を築いていったとのこと。

その後は、軽巡洋艦「五十鈴」、戦艦「伊勢」などの艦長を歴任して行きますが、この頃から多聞の中である心境の変化が起こり始めます。

これまで多聞は、軍艦、特に潜水艦の専門家という立場に在りましたが、今後の戦争には飛行機こそが重要なのではないかという思いを抱くようになったのです。

そして海軍内の友人の誘いもあり、航空隊の司令官としての道を歩み始めます。

そんな最中、中国にて支那事変が勃発します。

多聞は1940年(昭和15年)司令官として重慶爆撃の指揮を執り、大きな戦果を上げました。

しかしこの戦いは、世界を巻き込む大戦への導火線に火を灯す結果となってしまうのでした。

最早戦争は避けられない・・・そんな気運が渦巻く中、多聞は第二連合航空隊司令官に就任します。

既に海軍内では、真珠湾への攻撃作戦が立案されていましたが、そこには大きな問題がありました。

それは真珠湾の構造上、高い高度から飛行機を利用しての魚雷攻撃を行うことが出来ないという点でした。

この難問をクリアーするために編み出された戦法が、攻撃機に海面スレスレを飛行させながら魚雷を発射せるという、世界でも類を見ない方法だったのです。

しかしこの攻撃を行うには、非常に高い操縦技術が必要とされ、当時のエースパイロットでさえ、成功させるのは至難の技でした。

そこで多聞は、この戦法を成功させるべく、まるで地獄のような訓練を第二連合航空隊に課する決心をするのです。

連日続く、常軌を逸した飛行訓練は百戦錬磨のパイロットたちでさえ耐え兼ねる程の代物であり、隊員たちは影で多聞のことを「人殺し多聞丸」と渾名し、非難したと伝わります。

この逸話を聞けば、絵に描いたような鬼教官といったイメージの多聞ですが、危険極まりない作戦から部下を一人でも多く生還させたいという親心が、この行動の裏で働いていたのではないでしょうか。

事実、真珠湾攻撃の作戦会議の中で、多聞が乗り込む空母「飛龍」の燃料タンクの容量が小さく、帰りの燃料が積めないことを理由に、航空隊のみの貸し出しを依頼された際には、

「今まで訓練してきた人と飛行機を取られ、母艦だけ残されては部下に会わす顔がない、攻撃の後は置き去りにしてくれて構わない」と上官に怒鳴り散らしたといいますから、その想いの強さは半端なものではなかったようです。

結局、空母「飛龍」の内部倉庫に帰りの分の燃料をドラム缶にて積み込むことでこの問題は解決され、自らの空母で、そして自らが鍛えた航空隊を率いての真珠湾出陣が可能となったのです。

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そして大戦へ

そして1941年(昭和16年)12月7日、真珠湾攻撃は敢行され、日本を大きな戦果を上げることとなります。

ところが作戦終了の直後、誰もが攻撃の成功を喜ぶ中、多聞だけは厳しい顔で煙の上がる真珠湾を見詰めていました。

確かに多くの戦艦を撃沈することに成功したこの作戦でしたが、アメリカ軍の基地には未だ無傷の工場や燃料タンクが多く残っていたからです。

「これでは遠くない将来、アメリカが体制を立て直して、反撃に転じて来る!」そう考えた多聞は、残りの施設を叩くため、第二弾攻撃を上官の南雲中将に願い出ます。

しかし、南雲中将の判断は「NO」。

多聞は泣く泣く、第二弾攻撃を行わないまま帰路に着くのでした。

尚、後にあるアメリカ軍幹部は、この真珠湾攻撃の際に第二弾攻撃が行われ、石油タンク等に損失が出ていた場合には、後の戦局が大きく変わっていただろうと述べているのです。

それでも開戦当初の日本は破竹の勢いで戦果を上げ続け、運命のミッドウェー作戦を迎えます。

ミッドウェー諸島を舞台に行われたこの作戦は、アメリカとオーストラリアの補給路を断つことを目的に立案された作戦です。

当然、この作戦は戦争を有利に進める上で避けては通れない戦いであったため、作戦自体には多聞も賛成していました。

しかしながらこの時期、日本は優勢に戦いを進めながらも、アメリカの奇襲作戦により本土に空襲を受けてしまいます。

もちろん被害も限定的であり、継続して空襲を続ける力さえアメリカには無かったのですが、初の空襲は国民に大きな不安を与えることとなります。

そしてこの空襲を行った飛行機の経由地となっていたのがミッドウェー諸島であったため、軍部はミッドウェー作戦の実行を必要以上に急ぐこととなってしまうのです。

「余りに準備不足である」と多聞は必死に反対をしますが、この流れに逆らえるはずもなく、日本の勝敗を大きく左右するこの海戦へと突き進んで行きます。

またこのミッドウェー作戦、実はアメリカの暗号解読成功により、日本軍の動きは連合国側に筒抜けの状態となっていたのです。

そうとは知らない日本軍は、主力4隻の空母(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)を投入し、決戦を挑みます。

この戦いで多聞は空母「飛龍」に乗り込み、もう一隻の空母「蒼龍」の2隻の指揮を担当しました。

しかし、作戦全体の指揮は、真珠湾攻撃で第二弾攻撃の許可を下さなかった因縁の南雲中将が執っており、戦闘に向かう多聞の心には言い知れる不安があったものと思われます。

そしてこの不安は、見事に的中します。

本来の作戦ではミッドウェー到達後、敵の主力艦隊と大規模な戦闘となるはずでしたが、その海域には全くと言って良い程敵艦の気配がないのです。

実はこの時、日本軍の動きを察知していたアメリカ主力艦隊は、その裏を掻くべく背後から迫っていたのですが、そうとは知らない日本軍はミッドウェー諸島に造られたアメリカの航空基地を叩く作戦に切り替えを行います。

当然、陸上の基地を叩くのに魚雷は不要ですから、陸上爆撃用の装備に切り替えを行った戦闘機が空母を飛び立って行きます。

しかしその直後、日本軍は間近に迫った、アメリカ艦隊の存在に気付くのです。

現場は大変な混乱状態となりましたが、多聞は冷静に即時反撃の判断を下します。

ところが、作戦の指揮を執る南雲中将からの指示は、爆撃に向かった飛行機を一旦回収、装備を魚雷に変更した上で、反撃せよというものでした。

すぐ眼の前に敵が迫っているにも係らず、そんな悠長な作業を行っていられるはずがありませんよね。

事実、この兵装転換を行おうとした赤城・加賀・蒼龍の3空母は、アメリカ軍の猛攻を受け、あっと言う間に大破・撃沈されてしまいます。

これ程の被害を出した理由は、兵器交換のために甲板に多くの爆薬が露出していた為と言われており、この兵装交換が明らかな判断ミスであったことは疑いがないでしょう。

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多聞の最期

そして唯一残った空母に乗り込んだ山口多聞は「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」と独断でこの戦いの指揮を執ることを残る味方の艦船に報せ、空母「飛龍」の乗組員には「赤城・加賀・蒼龍は被爆した。本艦は今より全力を挙げ敵空母攻撃に向かう」と激を飛ばします。

また、発進させる攻撃機の隊員には「飛龍一艦、少数の飛行機で、敵空母2隻に勝てるはずもない。体当たりで戦って来い。俺も後から逝く」と伝えます。

無謀とも思われるこの捨て身の攻撃でしたが、敵空母「ヨークタウン」に大打撃を与えるなどその効果は絶大なものとなります。

しかしながら、絶対的に不利な状況には変わりがなく、敵機の急降下爆撃を受け飛龍の甲板は大破し、これ以上の反撃は不可能となってしまいます。

山口多聞は全乗組員を集め次の通り訓示します。

「皆が一生懸命努力したけれども、この通り本艦もやられてしまった。」

「力尽きて陛下の艦をここに沈めなければならなくなったことはきわめて残念である。」

「どうかみんなで仇を討ってくれ。ここでお別れする。」

そして皇居の方角に向け、万歳を唱えた後、総員に退艦命令を下します。

乗組員たちは当然、多聞も脱出するものと思っておりましたが、多聞は指令室に向かって歩いて行きます。

これに気付いた者たちが慌てて止めに入りますが、飛龍と運命を共にしようとする多聞の意志は強固なものでした。

もはや思い止まらせることは不可能と察した部下が「何かお別れに戴くものはありませんか」と願い出ると、無言のまま帽子を手渡したと伝わります。

その後、空母「飛龍」は稀代の名将・山口多聞と共にミッドウェーの海底深くに沈んで行きました。

山口多聞 名言

この山口の死は軍部の多くの者たちに衝撃を与え、

「山口の死は一時に大艦数隻失う以上の損失」

「山口を機動部隊司令長官にしてあげたかった。彼の下でなら、喜んで一武将として戦ったのに。」等、その死を悼む声が止むことはありませんでした。

またこの後、海軍最高の名将として名高い山本五十六を討ち取ったアメリカ軍幹部が、「山本の他に、アメリカの脅威となる日本人指導者はいるか?」と諜報部員に尋ねた際には、

「山口という者がおりましたが、既に死亡しております」と返答したとの逸話も伝わっており、多聞が如何に有能な司令官であったかを思い知らされます。

もし多聞が、真珠湾攻撃で第二弾攻撃を行っていれば、ミッドウェー海戦で指揮を執っていれば、先の大戦の結果は大きく変わっていたかもしれません。

多くの逸話が伝わる悲運の名将・山口多聞の名を誇り高き日本人として、後世に語り継いでいこうではありませんか。

 

出典 wikipedia 山口多聞

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