山本五十六 評価が分かれる優しき名将

山本五十六(やまもと いそろく)は、これまで何度も書籍や映画等に取り上げられて来た、先の大戦における海軍大将です。

今なお、稀代の名将として高い人気を博していますので、その名を知らない方はおられないでしょうが、彼が如何なる生涯を歩んだかについては、ご存じない方のほうが多いのではないでしょうか。

本日は、戦いに敗れながらも愛され続ける山本五十六の人生について考えてみたいと思います。

山本五十六 大和

出典 wikipedia 山本五十六

山本五十六は1884年(明治17年)4月4日、現在の新潟県長岡市に住む旧越後長岡藩士 高野貞吉の六男として誕生します。

おやっ?と思われた方もおられるかもしれませんが、誕生当時の姓は「高野」と言い、山本の姓は後に他家の家名を相続してから、名乗るようになります。

また五十六(いそろく)という名前も非常に珍しいのですが、実は生まれた当時の父の年齢が56歳だったためにこの名を授かっており、本人はあまり気に入ってはいなかったようです。

そんな五十六でしたが、生まれながらにかなり頑固な気性の持ち主であったとされ、小学校時代に友人から「鉛筆は食えないだろ?」と冷やかされるや、ボリボリを鉛筆を食べ始めたといいますから、その負けず嫌いぶりは驚くべきものありますよね。

その後、すくすくと成長を続け、中学生となった五十六に将来を決定付ける出来事が起こります。

10歳年上の親戚で、軍人を目指していた甥が病気で亡くなったのです。

この死を悼んだ五十六の両親は、彼に軍人になることを強く勧めたといいます。

これを受け、五十六は海軍兵学校を受験することとなり、200人の合格者中、2位という好成績で難関を突破します。

日本がロシアと戦った日露戦争の最中、五十六は兵学校を優秀な成績で卒業しますが、少尉候補生として直ぐに戦場に送られることとなってしまいます。

装甲巡洋艦・日進、それが彼の配属された船でしたが、この初陣にて敵の攻撃により日進は被弾し、五十六は左手・左足を失いかねない怪我を負ってしまします。

場合によっては切断も止むなしという大怪我でしたが、奇跡的な回復を果たして海軍に復帰し、様々な軍艦で任務をこなして行きます。

そして25歳の時には、駐在員としてアメリカに渡ることとなり、見識を広めます。

1913年(大正2年)には、両親が揃って亡くなるという不運に見舞われますが、こうした不幸にも負けず、海軍幹部となるための登竜門・海軍大学校に入学を果たすのでした。

また時を同じくして、旧長岡藩家老という由緒正しい家格を持つ山本家を相続することとなり、海軍エリート候補生、山本五十六がここに誕生するのでした。

32歳にして五十六は海軍大学校を無事に卒業しますが、腸チフスに掛かりまたもや生死の境を彷徨います。

どうにか命を取り留め、仕事も順調に進め始めた頃、五十六は友人から紹介された礼子という女性に一目惚れし、結婚を果たすのでした。

しかしながら1919年(大正8年)、再び公務でのアメリカ駐在が決まり、甘い新婚生活はそれ程長く続かなかったようです。

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再度アメリカに渡った五十六はハーバード大学に入学も果たし、アメリカの文化やスケールの大きさを肌で感じて行きます。

また、日本の航空開発の第一人者と言われる上田良武大佐とも親交を深め、航空機の有用性に着目する切っ掛けを得たのもこの頃であるとされています。

その後、イギリスを経由しながら帰国の途に付きますが、その途中、日本が関東大震災に見舞われたとのニュースを聞き同行者たちは大いに狼狽しますが、五十六は「日本人は偉大な民族であり、前より立派に復興する」と言い放ち、動じなかったと言います。

1924年(大正13年)9月には、兼ねてから興味を持っていた航空隊へと配属になり、操縦技術を学ぶと共に、ますます飛行機への関心を高めていったとされています。

翌年、またまたアメリカへ駐在させられることとなりますが、4年後に帰国した際には空母の艦長に抜擢され、部下の山口多聞らと共に戦闘機を海戦の主力兵器とするべく、研鑽の毎日を過ごして行くのでした。

そして海軍航空本部技術部長、海軍航空本部長と出世街道をばく進しますが、昇進祝いにと有名画家・横山大観から贈られた絵画を「全力で勤務にあたるため芸術にひたる余裕なし」と断るなど、その実直で真面目な人柄は変わることが無かったようです。

既に52歳となり、軍人としての円熟期を迎えていた五十六でしたが、この年、日本を震撼させる事件が起こります。

軍部の若い将校たちがクーデターを企てたのです。(二・二六事件)

五十六の下にもクーデターを起こした将校たちがやって来ますが、五十六は一喝して彼らを退けたとの逸話が残っていますから、その胆力も並々ならぬものがあったのでしょう。

同年、五十六は海軍次官に就任し、いよいよ政治の表舞台へとその姿を顕わします。

そして、まだ海軍次官という身分に過ぎないにも係らず、その人柄故か報道陣からの人気は高く、記者会見の席には会場に入りきれない程の記者が詰めかけていたというエピソードが伝わっています。

正に人生の絶頂期とも言えるこの時期でしたが、中国では日中戦争の切っ掛けとなる盧溝橋事件が勃発し、戦争の黒い影が五十六に忍び寄りつつあるのでした。

泥沼化していく中国戦線に対して、中国への補給路を断ちたい政府は、補給の要所となっている南シナ海・海南島に攻め込む案を出しますが、五十六はこれに強硬に反対。

また、既に戦争を始めていたドイツ・イタリアとの同盟についても同様に反対を主張するなど、こうした行動からも五十六の徹底した戦争拒否の姿勢を窺うことが出来ます。

実はこの時期、世論に反した行動を続ける五十六に対して、過激派が暗殺計画を企てているとの情報がありました。

それを知った五十六は、遺書をしたためた上、自宅に機関銃まで用意していたと伝わりますから、自分の命と引き換えにしてでも、戦争を食い止める覚悟を持っていたようです。

しかし、そんな五十六の心とは裏腹に日本は三国同盟参加を表明し、戦争へと舵を切って行きます。

そして実に皮肉なことに、最も戦争を恐れ、反対を唱えていたこの男が連合艦隊司令長官という大役に任ぜられてしまいます。

この任命に対して、五十六は必至で辞退を申し出ますが、遂に認められることはなく、「戦争をしたくない連合艦隊長官」という前代未聞の司令官が誕生してしまうのでした。

実はこの山本五十六、お酒は一切飲めないという体質の持ち主でしたが、司令長官就任というニュースを聞きつけてやって来た記者の前に酔っぱらって登場したという逸話が残されていますから、とても素面ではいられなかった彼の心境が滲み出ていますよね。

しかし、強靭な精神を持つ五十六は「逃げられないのであれば、前に進んで道を切り開くしかない」と考えを改め、開戦早期に戦果を上げ、早々に連合国と和解するという道を選ぶことにするのでした。

山本五十六 名将

やがて日本は国際連盟を脱退し、ついに本格的な戦争へ準備を始めます。

五十六は予てより、航空機を主力においての戦いを海軍内で主張して来ましたので、この戦争準備においても航空機の増産に力を注いで行きます。

そしてその航空兵力を存分に活かせる作戦、つまり真珠湾への奇襲攻撃を推し進めていくのでした。

1941年(昭和16年)、ついに準備を終えた五十六は、真珠湾に向けて艦隊を進めて行きます。

12月8日未明、ハワイ沖へと終結した連合艦隊は、大本営より発せられた「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」の暗号電文を受け取り、攻撃を開始します。

結果はご存じの通り、多くのアメリカ艦船を撃沈させることとなり、作戦は一応の成功を収めるのでした。

しかし、この真珠湾攻撃には2つの大きなミスがあったと言われています。

まず一つ目が宣戦布告の問題であり、多くの方は、この真珠湾攻撃が宣戦布告も行わないままに日本が行った作戦であるとお思いのことと思いますが、実は五十六がしっかりとアメリカへの最後通告を行うよう手配をしていました。

ところがその通達は遅れ、攻撃が終わった後にアメリカに伝えられることとなってしまったのです。

五十六としては奇襲戦法ながら正攻法で攻撃を仕掛け、アメリカの戦意を挫きたいという狙いがありましたが、これではアメリカ国民の感情を逆なでし、必死の反撃に転じてくることが必至の状況となってしまったのです。

また一説には、アメリカは真珠湾攻撃を察知しながら、卑怯な日本軍と言うイメージを作りたいがために、敢えて兵士にその事実を遣えなかったとの見方もあり、これが策略であったとすれば、日本は見事にその罠にハマってしまったという訳です。

そしてもう一つのミスと言われているのが、真珠湾に対する第二弾攻撃を行わなかったという点です。

五十六は攻撃時、作戦を実行する空母から離れた位置にて待機しており、現場の支持は南雲中将が執っていました。

第一弾攻撃を終えた際、南雲中将の下で作戦を実行していた山口多聞中将より第二弾攻撃をすべきであるとの連絡が入りますが、これに対して五十六は判断を南雲中将に任せてしまったのです。

結果、南雲中将は第二弾攻撃を許可しませんでしたが、もしこの時、攻撃を行っていれば後の戦況は大きく日本に有利になったはずであると言われているのです。

とは言え、表面上は大きな戦果を挙げた真珠湾でしたから、この後も日本は戦いを有利に進めていくことになります。

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そして時は流れ、五十六は1942年(昭和17年)大東亜戦争の大きな分岐点と言われるミッドウェー海戦に臨むこととなります。

この作戦は、アメリカとオーストラリアの補給路を断つことを目的とされていましたが、五十六はこの海戦に圧勝し連合国との対等な和議を結ぶつもりであったようです。

こうした思惑から、五十六のこの作戦に掛ける意気込みは凄まじく、もし作戦が実行できないようならば「職を辞する」とまで語っていたようです。

日本はこの大海戦に向けて万全の準備を行って行きますが、実はこの作戦、アメリカの暗号解読により既に露見しており、完全な待ち伏せ作戦にあってしまうのでした。

南雲・山口多聞中将率いる4隻の空母をはじめとする大艦隊は、ミッドウェーの海域に近付きますが、敵艦隊の姿は確認出来ず、島にある航空基地の攻撃を行うことになります。

しかし爆撃機が出払ったタイミングで、待ち伏せしていたアメリカ艦隊が姿を現し、連合艦隊へと襲い掛かって来たのです。

突然の攻撃に日本軍は総崩れとなり、空母4隻全てと多くの艦船、そして五十六と並ぶ名将と言われていた山口多聞中将と多くの優秀なパイロットたちを失うこととなってしまったのです。

五十六はこの時、最前線からやや離れた海域で戦艦「大和」にて待機していましたが、この敗北の知らせに殆ど言葉を発することが出来なかったといいます。

実はこのミッドウェー海戦でも、日本軍は大きなミスをしています。

それは敵の艦隊が突如現れた際、既に出撃済みの戦闘機を回収せずに反撃に移ろうとした山口中将を、南雲中将が止め、戦闘機の回収を優先させたのです。

もし山口中将の作戦が実行されていれば、この戦いにも勝利の可能性がありましたが、戦闘機の回収は大幅な時間のロスとなった上、甲板に無防備な爆薬を露出させる結果となり、敗北の大きな原因となってしまったのです。

この失策について非難は南雲中将に集中しますが、五十六は「今回のことで誰か腹を切らねばならぬとしたらそれは私だ」「南雲を責めるな」と部下たちに命じたと言います。

そして1942年(昭和17年)8月、戦局を大きく左右するもう一つの戦い、ガダルカナル島の戦いが開始されます。

通常であれば、ミッドウェー海戦でミスを冒した南雲中将は作戦から外すべきところですが、五十六この戦いでも再び南雲中将を重要なポストに据えます。

また、この作戦では五十六自ら戦艦「大和」で最前線に向かおうとしますが、部下たちの反対を受け、その願いが叶うことはありませんでした。

そして戦闘の結果はまたも大きな敗北を帰することとなり、日本軍は南洋諸島での制海権を完全に失うことになってしまうのでした。

ミッドウェー海戦・ガダルカナル島の戦いという二つの大きな敗北は、五十六の早期に連合国講和を結ぶという夢を完全に粉砕することとなり、彼の意気消沈は只ならぬものであったと伝わります。

その後の戦いにおいては、五十六が自ら指揮をとることの増え、い号作戦などでは一定の成果も収めますが、既に日本の敗北は決定的なものとなりつつありました。

それでも五十六は精力的に戦いを続けた上、島々に散開する各部隊への労いも怠ることはなく、僅かな護衛機を伴っては各島々を訪れていました。

しかし、アメリカ軍はこうした五十六の動きを常にマークしており、「山本長官は、日本で最優秀の司令官である。どの海軍提督より頭一つ抜きん出ており、山本より優れた司令官が登場する恐れは無い」との考えの下、攻撃のターゲットを五十六に絞って行きます。

そして4月18日、ラバウル基地からブイン基地に向かうブーゲンビル島上空にて、アメリカ軍の待ち伏せにあい、五十六の乗る機は墜落。

後日発見された五十六は、座席に座ったまま軍刀を握り、息絶えていたと伝わります。

これが日本海軍にこの人ありと言われた山本五十六の生涯です。

山本五十六 海軍甲事件

歴史家の中には、ミッドウェー海戦・ガダルカナル島の戦いでの敗北や、何度失敗しても南雲中将を戦闘の要に置き続けたことを理由に、五十六を凡将と評価する者もいます。

しかしながら、開戦に最後まで反対し続けた上、他国が全く重要視していなかった航空機に目を付け、戦争前半には殆ど負けなしという状況を作り出したこの男は、やはり偉大な指揮官であったと私は思います。

また、実は戦闘準備の段階において五十六が必要と考えていた航空機の数は、開戦時に日本が準備していた航空機の数を遥かに上回るものでした。

ところが、軍の上層部は飛行機に予算を掛けるくらいであれば、より多くの軍艦を造るべきだと考えており、五十六の考える理想の状態とは程遠い状態での開戦となっていたようです。

なお、南雲中将の扱いについても、南雲中将の責任を追及することが五十六自身の立場を危うくする可能性があるとして、処分を行わなかったとする説もありますが、私は指導者として大きな器を持つ五十六の人柄が、こうした行動の引き金となっていたような気がしてなりません。

五十六の座右の銘としてこんな言葉が伝わっています。

「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」

「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」

「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」

「苦しいこともあるだろう 言い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である」

五十六はこの言葉を何よりも大切にし、何よりも人間造りに重きを置いていた、優し過ぎる司令官であったのではないでしょうか。

実は南雲中将と五十六の関係は決して良好なものではなかったと伝わっています。

良好な関係でないからこそ、部下を「見守り、信頼し」育てたかったのではないでしょうか。

そして、しっかりとした護衛を付けずに飛行機で島々を飛び回ることは、自殺行為であるとの指摘もありますが、命の続く限り兵士たちを勇気付け、討ち取られることで自分の責任を全うする。

この最期にも、軍人・山本五十六という男の想いが込められていたのでしょう。

最後まで戦争に反対し、誰よりも部下を思いやった名将山本五十六を、誇り高き日本人として評価し、語り継いで行きたいと思います。

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出典 wikipedia 山本五十六

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