菅野直 逸話に彩られた撃墜王の生涯

皆様は「傾奇者(かぶきもの)」という言葉をご存じでしょうか。

戦国時代などにおいて、異様な出で立ちを好み、権力者に逆らい続けた男たちであり、現代の言葉で言い換えれば「つっぱり」とでも言うような存在でした。

彼らの好んだ派手な出で立ちを元に、芸能の歌舞伎も誕生したと言われていますが、

この言葉を世に広めることとなったのは、作家・隆慶一郎先生が書かれた「一夢庵風流記」という作品によるところが大きいと言われています。

この作品は、「花の慶次」というタイトルにてマンガ化もされいますから、主人公である傾奇者「前田慶次(朗)」をご存じの方も少なくないはずです。

戦国末期に生まれ、戦場においては「いくさ人」として誇りを持って戦い、その性格は豪胆そのもの、如何なる権力にも屈しないヒーロー像に、憧れを持たれた方も多いのではないでしょうか。

また、憧れと同時に「前田慶次のような強く自由な生き方は、現実世界で出来るはずもない」という想いが湧き上がってくるのも、この作品の特徴であると思います。

しかしながら、まるでこの前田慶次の如く、第二次大戦期の空を鮮烈に駆け抜けた「菅野直(かんの なおし)」というパイロットが居たことを、あなたはご存じでしょうか。

本日は撃墜王として連合国から恐れられた快男児・菅野直の逸話に彩られた人生についてお話させて頂きたいと思います。

菅野直 デストロイア―

画像出典 wikipedia 菅野直

少年時代

菅野直は1921年(大正10年)9月23日、警察署長である父の次男として、日本占領下の朝鮮で産声を上げます。

父の故郷は宮城県でしたが、この時期は仕事で朝鮮半島に赴任中であったと伝わります。

その後は、再び日本に戻り宮城県の豊かな自然の中で幼少時代を過すこととなりますが、この頃から既に稀代の快男児としての片鱗を見せ始めます。

とにかく底抜けに明るいキャラクターに、喧嘩となれば真っ先に先頭に立つといったガキ大将タイプであり、兄がイジメられれば上級生にでも平気で飛び掛かる強気な少年でした。

しかしながら、兄に対しては強い尊敬の念を持っていたようで兄弟喧嘩は一切なし、姉に対しては中学生になるまで同じ布団で寝るなど、甘えん坊の一面も有していたようです。

また、活発に遊び周りながらも、勉強を疎かにすることはなく、成績は常にトップクラスであり、中学の入学試験も一番の成績で通過したといいます。

そして中学生となり、思春期を迎えた直でしたが、腕白さは相変わらずなものの、石川啄木に憧れ短歌を読み、それが地方新聞のコンテストで入選するなど、芸術の面でもその才能を開花させて行きます。

中学の卒業を控え、大学進学を目指して勉強を始める直でしたが、決して裕福な家庭ではなかったため、兄に大学受験を勧め、自分は軍人として身を立てていくことを決心します。

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パイロットへの道

1938年(昭和13年)、17歳で海軍兵学校に入学した直は、3年後の1941年に無事に卒業、少尉候補生として戦艦の乗組員として、軍人としての人生をスタートさせます。

21歳の時には少尉に昇進しますが、これと同時に飛行学生となり、パイロットしての訓練を開始します。

飛行学校を卒業し、大分の航空隊に配属されますが、新米パイロットでありながら、模擬空中戦にて教官の背後を取るなど、そのポテンシャルの高さで注目を集めていたました。

また、まだ教えられてもいない宙返りを独学で身に付けるなど、非凡な才能を見せますが、勢い余って着陸に失敗し、練習機を何台も大破させるなど破天荒な行動も目立ち、仲間内では「菅野デストロイヤー」と渾名されていました。

この時期に菅野が壊した戦闘機は、九六艦戦、零戦とその種類、台数も半端なものでは無かったようですが、不思議と自身が怪我をすることは無く、

飛行学生時代の写真の裏には「stant(スタント)ハ終ワッタ」との走り書きも残されており、あるいは飛行機の性能限界を知るためにワザと無茶をしていたのかもしれません。

そして戦場へ

そして時は流れ、時代は大東亜戦争へと突入して行きます。

1944年(昭和19年)、24歳になった直は、第343海軍航空隊の分隊長として南方戦線に向かいました。

編隊を組んでの飛行中にはぐれた隊員を一人で捜索に行くなど、面倒見の良い分隊長であったようで、

この当時部下だった者からも「ロクでもない指揮官も少なくなかったが、菅野さんはまれにみる立派な指揮官だなと思った」と評価されています。

また戦闘においても菅野直の活躍は目覚ましく、多くの敵を撃墜していたのはもちろん、飛行中の大型爆撃機に対して、

上空1000mから急降下しながら攻撃するという戦法を編み出すなど、戦闘技術の開発にも一役かっていたとの記録が残っています。

だたしこの攻撃法、高度な操縦技術と底抜けの度胸が必要となるため、当時のトップパイロットの中でも真似が出来る者が殆ど居なかったとのこと。

この様に空中戦で大活躍を見せる直であったが、地上に降りてもその破天荒ぶりは健在であり、

憲兵と喧嘩をした部下の引渡しを求められた際には「そんな奴は知らない。部下は渡さない」と憲兵を一喝したかと思えば、銃撃で受けた太腿の傷の手術を麻酔無しで済ませたなどの逸話まで伝わっています。

そして果てには、着陸する基地を間違え指揮官に怒られたことに腹を立て、指揮官のテントをプロペラの風圧で吹き飛ばしてしまうという事件まで起こしていますが、類稀なる操縦技術故か罰らしい罰を受けることはなかったようです。

正に無敵の菅野直といったところですが、実は一度だけ敵に自機を撃墜された経験があります。

これは移動のため、部下が操縦桿を握っている時だったのですが、突如として現れた敵機の攻撃をもろに受けてしまいます。

体勢を立て直すため、「どけ、俺がやる」と部下から操縦桿を奪い取りますが、流石にこの時は不時着するのが精一杯であったようです。

その数日後、救助隊が直たちをルバング島という島で発見しますが、直は原住民から「プリンス菅野」として島の王様のように祭り上げられていたといいますから、彼のカリスマ性の前には人種や国境も関係がないようです。

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特攻作戦の開始

このように戦場にあっても豪胆極まりないこの男でしたが、その心を引き裂く出来事が発生します。

学生時代の同期であった関行男が特攻により命を落としたのです。

実はこれまで、直も何度か特攻に志願しているのですが、撃墜王として攻撃の要となっている彼の特攻を、軍部は決して許可しなかったのです。

そしてこの頃から、直の仕事も敵機への直接攻撃から、特攻に向かう機の護衛である「直掩任務」が増えて来ます。

直掩任務においては、特攻の戦果を見届け、司令部に戦果報告することも重要な仕事となっていますが、

ある作戦に際し直がその戦果を報告したところ、上官から「戦果が大き過ぎる、嘘の報告をしているのではないか?」とクレームを付けられます。

これに激怒した直は、腰に下げた拳銃を床に向けて発砲し、猛烈な抗議をしたとのエピソードが伝わっています。

またある時は、特攻の出撃命令を待つ隊員たちの酒宴の声がうるさいと怒鳴り込んで来た上官を逆に怒鳴り付けて撃退したと言いますし、

特攻機の援護をする直掩任務に当たる者に「自分たちだけ落下傘を付けるとは何事だ」と言い放ち、落下傘の着用を禁じるなど、特攻隊員たちに対して並々ならぬ心遣いを見せています。

そして彼の特攻隊員たちを思う気持ちは、やがて自ら乗り込む戦闘機「紫電改」に黄色のペンキでストライプの線を描くという行為に発展。

これは特攻隊の護衛の際、「より敵の目が自分に向くように」との想いから作戦であり、死地に向かう隊員たちはそんな直の心遣いに涙したことでしょう。

また、護衛役に回っても彼の血気盛んな性格は一切変わらず、敵を見付けるや「こちら菅野一番敵機発見!」と無線で叫び、悪鬼のように飛び掛かって行くの常であり、

そんな直の機を、アメリカのパイロットたちは「イエローファイター」と呼んで恐れたといいます。

なお、自らを犠牲にしてでも特攻隊員たちを守る直の姿勢と、竹を割ったような性格は上官たちからも評価されていたようで、

直属の上司である源田司令は直を息子のように可愛がっていたといいますし、直も司令を「おやじ」と呼んで慕っていたといいます。

ある夜、酒宴で騒いでいる直たちに対して、隣室から「うるさい!」と怒鳴った者がおり、怒った直が襖を蹴破ったところ、そこには数人の少将と参謀が食事をしていたと言います。

共に騒いでいた者たちは青ざめますが、直は更に机の上の料理を蹴飛ばし、その上に座り込んで睨み付けるという事件を起こしますが、

源田司令の取り計らいにより「お咎め無し」となったそうですから、この二人の関係は上官と部下という関係では推し量れない親しさがあったようです。

さて、ここ少々気になるのが、菅野直という快男児の女性関係ではないでしょうか。

これほど度胸と男気に溢れる男を女性が放っておくはずもないのですが、直と親しかった友人の妻によれば「嫁さん欲しいなぁ」とは零すものの、

「何時死ぬか判らない自分が妻を娶る訳にはいかない」と考えていたようで、言い寄る女性は多かったが深い仲になることは避けていたとのことです。

菅野直 紫電改

菅野直 戦闘機

最後の出撃

そして1945年(昭和20年)8月1日、菅野直にとって運命の日が訪れます。

この日、直の隊に下られた任務は、日本へのと空襲に向かうアメリカの爆撃機編隊に対する迎撃でした。

何時ものように直は先頭をきって出撃し、屋久島の近辺で敵機を発見するや高度を上げ、得意の急降下攻撃を仕掛けます。

攻撃を完了し、水平飛行に戻った直でしたが、二番機に乗る飛曹長へ「ワレ、機銃筒内爆発ス。ワレ、菅野一番」と無線が入ります。

慌てた飛曹長は直の機に近付き確認したところ、左の翼に機関砲によるものと思われる大きな穴が開いているのを発見します。

飛曹長はすぐさま直の護衛に付こうとしますが、直これを拒否し、敵の迎撃に向かうよう指示を出したのです。

いくら隊長の命令とは言え、これに従うことは出来ないと飛曹長も粘りますが、直は怒った顔付きで飛曹長に握った拳を向け、戦いに戻れと繰り替します。

ついに折れた飛曹長は直の下を離れますが、この時、直はニコッと微笑んでいたといいます。

敵機との空中戦がしばらく続きますが、直より「空戦ヤメ、全機アツマレ」との指示が入り、部下たちは胸を撫で下ろしたのも束の間、

「ワレ、機銃筒内爆発ス。諸君ノ協力ニ感謝ス、ワレ、菅野一番」との入電が再び入ったのです。

菅野直 撃墜王

集合場所に集まった部下たちは、燃料が尽きるまで直の機を探し回りますが、結局その消息を知ることは出来なかったと伝わります。

以降も菅野直の行方は用として知れず、「おやじ」として直が慕った源田司令により、戦死として扱うことが決定。

撃墜王、菅野デストロイヤーとして連合国から恐れられた菅野直はこうして戦場という舞台から姿を消しました。

生涯で撃墜したとされる敵機は72機、残された遺品は事前に書いていた遺言により全て焼却されたといいます。

撃墜王・菅野直まとめ

第二次大戦という空前の負け戦の中でも、常に己の信念に従い、それに反する者は上官であっても容赦することはなく、部下たちにはひたすら優しかったこの男の物語を、我々は語り継いで行かねばなりません。

「どんな時代、どんな境遇でも、人は心の在り方一つで輝きを放つことが出来る!」、傾奇者 菅野直の生き様は私たちにそう語り掛けているよう気がしてなりません。

紺碧の空に消えていった、デストロイヤーと呼ばれた鮮烈なる撃墜王・菅野直の御霊が安らかなることを、心より祈ります。

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出典 wikipedia 菅野直

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