感情と心の違いを見分ければ、人生が開ける!

感情と心 違い

 

ニュースなどを見ていると、目にしない日がないのが凶悪な事件の数々です。

水と平和はタダと言われていた我が国だけに、こうした現状を目の当たりにすると、非常に嫌な気持ちになってしまいますよね。

また、こうした事件の動機をよくよく調べてみると、「イライラしてやった・・・」、「誰でもよかった・・・」、そんなふざけた犯行動機をしばしば耳に致します。

何故、イライラしただけで、人を傷付けてしまうのでしょうか。

また、こうした重大事件にまでは発展しないものの、暴力を抑えられない小学生や、若者が増えていることは、自明の理です。

一体どうすれば、こうした社会の風潮を正すことが出来るのだろう。

ある時期から、私は真剣にこうした問題を考えるようになっていました。

報道番組などでこの手の問題が取り上げられる際、必ず論じられるのが、ネットやテレビ番組・映画などからの影響であるという説であり、事実凶悪な事件が発生する度に、多くのメディアが自主規制という形で、その内容を変化させて来ました。

しかしながら、こうした努力にも係らず凶悪事件は一向に減少しないばかりか、むしろ増加傾向にあることは皆様もご存じのことと思いますし、メディアにばかり責任を押し付けるのは非常に無理があるような印象を受けます。

そんなことを思い悩む中、一つの結論に達したのが「感情と心の違いを見分ることが出来れば良い」ということでした。

本日は私がそんな思いに至るまでの経緯をお話してみたいと思います。

スポンサーリンク

 

思いを巡らす切っ掛け

「巷に溢れる凶悪事件を減らすにはどうすればよいのか?」、そんなことを思い悩んでいた時期、学生時代からの友人であり、ある仏教の宗派で僧侶として活躍している方と飲み行く機会がありました。

当時は、丁度山口県で発生した母子殺人事件の判決を巡り、死刑判決の是非などが世間を騒がせていた時期でしたので、ついつい話題はこの事件へと向いて行きました。

私は、もし自分の家族がこのような事件に巻き込まれ、犯人が死刑判決を受けないのであれば、何年待ってでも必ず報復をするだろうと僧侶の友人に語りました。

そんな私の意見を聞いた彼の応えは「お前がそれを心で決めたならばそうするべきであるし、それが感情からのものであるならば、断固として復讐は止めておくべきだ」というものでした。

この返答に納得がいかない私は「それがあなたの身に起きた場合でも、同じことが言えるのか?」と続けて彼に問い質します。

彼はしばらく考え込んだ後、「それは判らない。でも復讐をせずに相手を許すことが出来るように仏教を学んでいるのだ」と返して来ました。

この時はお酒も廻っていたため、しばらく議論した後、話題はすんなりと切り替えられてしまいましたが、このやり取りが以降も私の心に引っ掛かり続けていました。

今でも未熟な私ですが、当時は更に未熟であったため、そんな犯罪者を許すのが理想であるなら、仏教など学ぶ価値もない!そんな心境で居たのを記憶しています。

しかしそれ以来、私の中では「心と感情」という彼の言葉が事あるごとに過っていくようになってしまいました。

スポンサーリンク

 

日常の中で

仕事で失敗をして、上司に叱責されている時。

友人とトラブルを起こして揉めている時。

ついイライラして家族に八つ当たりをしてしまった時。

それ以降、ケースは様々ですが感情が大きく揺さぶられる際には、決まって僧侶友人の顔と共に「心と感情」という言葉が蘇って来るようになりました。

そんな中で、自分なりに理解出来たことは、「心」と「感情」というものが全くの別物であるということ。

このブログをお読みの方の中には、「心」と「感情」は同一のものであるとお考えの方も多い思いますので、判り易い例を挙げてみたいと思います。

例えば、あなたが上司から叱責を受けたとします。

もちろん言い方の問題はあるでしょうが、その言葉にあなたは激しく傷付いたとします。

当然頭に血が上り、心の中で上司に反論するでしょうし、場合によっては悪口雑言を並べ立てることもあるでしょう。

ただ、この上司の言葉が後になって、実は自分に対してとても重要な助言であった理解出来るケースも時にはありますよね。

今回のケースでいうならば、叱責された直後に頭にきた状態が「感情」、後から上司の真意に気付いた状況が「心」ということが出来ると思います。

これを咄嗟の場合に自分で判断することは非常に難しいことだとは思いますが、感情に負け、その場で上司と喧嘩になれば、少なくとも会社という場であなたは非常に辛い立場に追い込まれることにでしょう。

しかし、その場で上司が本当に言いたいことを心で受け止めることが出来れば、悔しい想いをすることもなく、素直な気持ちで謝罪し、叱ってくれたことへの感謝の気持ちさえ伝えることが出来るはずです。

改めて自分の人生を振り返ってみると、感情に流されて来たことが如何に多いかということに愕然として来ます。

また、凶悪な犯罪を起こして来た人々の殆どが、この感情と言うモンスターに呑み込まれていたことも理解出来るはずです。

スポンサーリンク

 

私なりの結論

ただし、この上司の例をとっても、相手が必ず正しいことを言っているとは限りませんし、例え正しかったとしても、あなたにはそれを受け入れられない場合もあるでしょう。

相手の言うことをしっかりと「心」で受け止めた上で、それでも反発するべきであると「心」で決めた場合には、それに従って良いのだと思います。

本当に心で決めたことならば、後から後悔するということは絶対にないはずなのですから。

こうした想いに至った時、あの夜、僧侶の友人が話してくれたことを、一気に頭の中で解決することが出来ました。

相手に復讐したいという想いが、感情でないならば、大いに復讐を遂げるべきである。

ただ、僧侶という立場上、公の場でそれを口にするのは憚られたのでしょう。

これ以来、私はトラブルが発生する度に、自分の中にある想いが「心」なのか「感情」なのかを問い質しています。

もちろん、毎回上手くはいきませんが、これを考えることにより、人間関係をかなり円滑に運べるようになったと思いますし、それ以上に自分の中のストレスを軽減出来るようになった気がします。

人間は、「心」という仏と、感情という「モンスター」を同時に飼っている生き物。

感情と心の違いを見極めることが出来るかが、幸せな人生を送れるか否かの分かれ道になっているようです。

そしてこのコントロールを身に付け、自分の子供たちに伝えて行くことが出来れば、我が国は再び誇り高き国として立ち直ることが出来るのではないでしょうか。

コメントは受け付けていません。

サブコンテンツ

アクセスカウンター

  • 71今日の訪問者数:
  • 256昨日の訪問者数:
  • 92今日の閲覧数:
  • 360昨日の閲覧数:
  • 98930総閲覧数:
  • 77804総訪問者数:
  • 2現在オンライン中の人数:

スポンサーリンク

このページの先頭へ