ミッドウェー海戦の敗因から見える真実 無謀な戦争では無かった

太平洋戦争(大東亜戦争)の特集番組などでよく耳にする言葉が「日本は何故、あのような無謀で勝ち目のない戦いを行ったのか」という趣旨の発言です。

その理由についてマスコミは「日本人は奢っていたのだ」等の原因を実しやかに謳っていますが、あの戦争は本当に無謀極まりない戦いだったのでしょうか。

そこで本日は、先の大戦において勝敗を大きく左右した言われるミッドウェー海戦について、お話させて頂きたいと思います。

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この戦いが行われたのは昭和17年(1942年)6月5日~7日にかけてのことでした。

戦闘の要因となったのは、1942年(昭和17年)4月18日にアメリカ軍により行われた初めての日本本土空襲(ドーリットル空襲)であるとされています。

本土が空襲されたとなると、日本軍がかなり追い込まれていたような印象を受けますが、この時期の日本は東南アジア方面にて破竹の勢いで進撃を続けており、連戦連勝の絶頂期でした。

各方面の戦闘で勝てない連合国軍は、日本国民に動揺を与えるため、奇襲的な空襲計画を企てたのです。

勝ち戦の続く日本は、まさか本土に爆撃を受けるとは思っていなかったため、充分な防衛が行えず、飛行機5機に民間人死者87人、そして家屋262戸という損害を出してしまいます。

この作戦は日本国内に大きな動揺を与えますが、最も危機感を募らせたのは、連合艦隊司令長官 山本五十六でした。

被害自体は左程大きなものではありませんでしたが、本土を攻撃対象にされたことを危惧した山本長官をはじめとする海軍は、アメリカが日本空襲に際して中継基地に利用しているミッドウェー諸島の攻略を計画することになります。

しかしこの作戦には、本土への空襲を防ぐ意外にもうひとつの思惑があったとされています。

ミッドウェー 作戦

 

実はこの山本長官、開戦当初から戦争自体に反対していた人物なのです。

開戦当初は日本優位に戦いが進むが、時間の経過と共に日本が劣勢に陥ることを予測し、ある程度戦果を挙げた段階で、連合国との講和を図ろうしていたのです。

ミッドウェー諸島は連合国にとって戦略上大変に重要な要所ですから、ここに攻撃を仕掛ければ、敵国の主力艦隊が応戦してくるはずであり、この主力を叩いた時こそ、講和に持ち込む最大のチャンスであると考えていたようなのです。

ただ、本土が空襲を受けたことで作戦実行の時期を急ぎ過ぎたとも言われており、これが後にこの作戦に暗い影を落としていくこととなります。

そして時は流れ、遂にミッドウェー作戦が実行されることとなります。

日本は艦隊をいくつかに分け、南の要所であるミッドウェー諸島と共に、北の要所アリューシャン諸島も攻略しようと試みます。

しかしながら、ここで作戦に大きな誤算が生じます。

それは、この日本の計画をアメリカは暗号解読により、事前に察知していたのです。

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日本のミッドウェー諸島侵攻を知ったアメリカは、その総力を結集し一大待ち伏せ作戦で、連合艦隊を待ち受けます。

そうとは知らない日本軍はミッドウェー諸島に到達、周囲にアメリカの艦船を探しますが、情報を察知していたアメリカ艦隊はこの探索の目を巧みに逃れていました。

周囲に戦艦等が存在しないとなれば、空母に待機する日本軍の戦闘機に施された対戦艦用の魚雷は意味がありませんので、ここで日本軍は魚雷を爆弾に積み替える作業を開始してしまいます。

ところが、このタイミングで突如としてアメリカ艦隊が日本艦隊に襲い掛かって来たのです。

迎撃に出るはずの日本の戦闘機は魚雷の積み直し中ですから、思うように出撃が出来ません。

この状況を耳にした空母蒼龍・飛龍の指揮を執る山口多聞海軍中将は、司令官の南雲中将に対して、既に発進している爆撃機を空母に回収せず、待機している機の整備を急ぐよう進言します。

しかし南雲中将はこれを却下し、爆撃機の収容を優先させてしまいます。

これにより日本軍の迎撃は大幅な遅れを執った上、作業中の甲板には爆弾や魚雷が無防備に置かれており、このアメリカ軍の奇襲により日本はあっという間に空母3隻(赤城・加賀・蒼龍)を失うことになります。

そして唯一残った空母飛龍に乗り込んだ山口多聞海軍中将は、独断で反撃の支持を出し善戦するものの遂に力尽き、乗員を非難させた後、自らは空母飛龍と共に太平洋へと沈んでいったのです。

この空母4隻、そして多くの艦船を沈められたことで、日本は撤退を余儀なくされ、ミッドウェー作戦は失敗に終ったのです。

これがミッドウェー海戦、そして敗因のあらましです。

ミッドウェー 敗北

 

もちろん歴史に「もしも」は存在しませんが、この海戦における日米の戦力を比較してみますと

日本・・・航空母艦4隻 戦艦2隻 重巡洋艦2隻 軽巡洋艦1隻 駆逐艦12隻

アメリカ・・・航空母艦3隻 重巡洋艦7隻 軽巡洋艦1隻 駆逐艦15隻

とその戦力は日本が優位に立っており、アメリカに待ち伏せを受けたにしても、これ程の敗北を帰することはなかったはずなのです。

これに加え、空母「飛龍」と共に沈んだ山口多聞海軍中将は、気鋭の指揮官として山本長官と並んでアメリカからも恐れられていた人物でした。

もしも、この海戦の指揮を山口中将が摂っていたら、もしくはせめて、山口中将の進言を司令官の南雲中将が聞き届け、素早い反撃を行っていれば、この海戦で日本が勝っていた可能性も充分にあったと言われています。

そしてミッドウェー海戦の敗北を受け、日本は絶好の講和の機会を失ったばかりか、早期に戦争を講和に持ち込もうとする軍部の勢力も政治の舞台から一掃され、終わりのない泥沼の負け戦へと突き進んでいくこととなったのです。

また、この戦いにおいて、多くの優秀なパイロットと、老練した海軍将校を失ったことにより、以後の作戦では同じ兵力の部隊を用いても、その実力は著しく低下したものとなっていったと言いますから、この海戦の敗北が大東亜戦争自体の敗因となったと言っても過言ではないでしょう。

このように戦争に踏み切った日本には、実現こそ出来なかったものの、明確な終戦・講和へのビジョンがあったのです。

何かに付けては「無謀」「勝ち目がない戦」と中傷される先の戦争ですが、決して軍部もあたら国民を苦しめようとしていた訳ではないことを、ご理解頂ければ幸いです。

あの戦争に加わった私たちの祖父・曾祖父たちは、しっかりとした理性を持ち、祖国のために戦ったのです。

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出典 wikipedia

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