東京大空襲 甚大な被害の上に築かれた大都会

若者たちが闊歩し、交通網が網の目のように張り巡らされた花の大都会東京。

日本の首都として、文化・流行の発信地としてその名を轟かせ、1300万もの人口を誇るのがこの街です。

地方の方々はもちろん、神奈川・千葉などの近県からも、憧れの対象であるこの都ですが、70年前、この街は地獄の様相を呈していました。

東京大空襲 アメリカ

 

本日は、2020年のオリンピック開催地にも決まり、発展を続けるこの街を襲った悲劇「東京大空襲」についてお話させて頂きたと思います。

太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1944年(昭和19年)11月以降、東京はアメリカ軍による空爆の嵐に曝されていました。

その回数は、終戦までも9カ月間で106回にも及ぶとされていますから、3日に一度以上のペースで空襲を受けていたことになります。

被害は東京全体で計12万人に及ぶとされていますから、この数を見れば、当時行われた空襲の激しさをご理解頂けるのではないでしょうか。

これらの空襲の中でも、特に大きな被害を出したとされるのが1945年(昭和20年)3月10日に行われた東京大空襲であり、死亡者は8万人以上、戦時中に東京で亡くなった方の2/3がこの空襲で命を落としたことになります。

果たしてその空襲の実態とは、どのようなものだったのか詳細をみていきましょう。

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大空襲はこうして実行された

東京大空襲にて、ここまで甚大な被害を出した原因のひとつにアメリカ軍司令部の人事異動があるとされています。

東京への空襲が本格化される前の司令官Hは、空爆こそ行いながらも、民間人の被害を最小限に抑えようという姿勢の持ち主であり、攻撃対象も工場や軍事施設が主なターゲットでした。

しかしながら、日本を一刻も早く降伏させたい軍幹部はHの任を解き、他の戦線において多くの民間人を犠牲にしてきたCを指揮官に据えたのです。

このことが、東京への空襲をより破滅的なものへとした大きな要因であると言われています。

その後のアメリカ軍の空襲計画は、如何に多くの国民を効率的に殺傷するかが課題となり、ハワイに住む日系人を用いて日本家屋の実物大模型を作成しての延焼実験に始まり、関東大震災の被害状況の分析なども加えた恐ろしい計画へと成長を遂げて行きます。

そして3月9日、ついにこの悪魔の計画が実行に移されます。

22時30分、アメリカ軍の爆撃機の接近を察知した日本軍は、東京都内に空襲警報を発令します。

しかしこの時は、爆撃機はそれ程の攻撃をすることなく、飛び去って行きました。

空襲は終わった・・・。

誰もが安心し、眠りに着こうとした3月10日午前0時7分、あの恐るべき空襲が開始されたのです。

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アメリカ軍の攻撃計画は非常に綿密なもので、天候の予想からこの日の風が非常に強いことを予測していた上、日本のレーダーを攪乱するために、金属を取付けた囮の板をばら撒くなどしていたため、日本軍はこの攻撃に対する対処が遅れたと言われたいます。

そして325機のB29から、雨霰のように爆弾が投下され始めます。

この際に使用された爆弾は、クラスター焼夷弾と呼ばれる兵器であり、ゼリー状に固められたガソリンの詰まった50センチ程の長さの鉄管の束が爆撃機より落とされます。

この束は落下中に分散し、炎の矢となって地表に降り注ぐのです。

建物に当たれば、屋根を突き破り、建築物の内部から火災を発生させ、人間に直撃すれば、その身体を突きぬけて燃え続けるという壮絶な爆弾であり、串刺しになって亡くなった方も数多かったとされています。

また、ガソリン等を主原料にした爆弾の炎は、水では消火出来ないばかりか、水分と反応して更に燃え上がるという手に負えない代物であったのです。

そして空襲は、第一波、第二波と続けられ、この夜一晩で投下された爆弾の数は、38万1300発、重量は1783トンにも及んだのです。

東京大空襲 火災

※陸上自衛隊HPより引用

タバコを加え、コーラを飲む爆撃機の乗組員とは裏腹に、地上にはこの世の地獄が現出しておりました。

爆弾の直撃を受ける者、倒壊した建物に押し潰される者、そして町を囲むように円形に投下された爆弾の炎は、円の内部の空気を上空に押し上げ、多くの住人を窒息に追い込みました。

人々は炎に追われて逃げ惑い、多くの人が河に逃れようと飛び込みましたが、流れ込んだガソリンは川の水面も火炎で覆っておりましたし、運良くこれを逃れても、人々を待っていたのは、3月の冷たい水による凍死という結末でした。

爆弾の高熱により発せられる上昇気流により、火災旋風が巻き起こされ、その炎は成層圏にまで達したと言われ、火災が収まるのに24時間を要したと言われています。

そして人々の活気に満ちていた東京は、約8万人の遺体、4万人の怪我人、100万人の被災者を残す焼け野原に帰したのです。

これが東京大空襲の実像です。

今まで、映画やドラマで何度か映像化されているこの空襲ですが、そのどれもが如何に婉曲に表現されていたをご理解頂けたことと思います。

東京大空襲 慰霊

私たちが考えねばならないこと

もちろんアメリカが行ったこの無差別攻撃は、国際法の規定を逸脱する戦争犯罪行為です。

彼の国はこれに対して謝罪のひとつも致しませんが、私たち日本人は何処かの国のように、星条旗を燃やすといった抗議活動は行いません。

むしろ平和を願い、かつての敵国とさえ協力して世界の治安を維持しています。

しかし決して忘れてはならないのは、若者たちが座り込むコンビニの駐車場、家族が笑顔で食卓を囲む家の敷地、安保法案反対のデモ行進が練り歩く街角の地下にも、この時の犠牲者の方々のご遺体が存在していたという事実です。

そして彼らが願ったのは、家族の幸せと、祖国日本を守ることでした。

今、私たちが享受する幸せが、東京大空襲の甚大な被害の上に成り立っていること、そしてこの国を守るという使命を託されているということを、私たちは常に自覚して行かねばならないのです。

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出典 wikipedia

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