アッツ島の戦い 17日間の玉砕戦

北緯52度54分、東経172度54分、アメリカ合衆国最北端にあるアラスカ州に属する海に、アッツ島という無人島が存在します。

そこは、一年の天気の殆どが雨又は雪、晴れる日は年間数日しかない上、極寒の気温と凄まじい強風に見舞われ続ける地獄の様な孤島なのです。

文字通り、鳥も通わぬこの島ですが、歴史上非常に有名な島であることをご存じでしょうか。

それは、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)5月12日より29日の17日間、日本軍とアメリカ軍による凄惨な戦いが繰り広げられたことによります。

そして、この戦争において初めて、日本が「玉砕戦」を経験した地でもあるのです。

果たしてこの戦いは如何なるものであったのでしょうか。

この戦いが起こった当時、アッツ島は日本軍が占拠していました。

アッツ島 戦い

 

この島を日本が抑えた目的は、北からのアメリカ・ソ連の侵攻を阻むためであり、アッツ島側にあるキスカ島も同様に日本軍が占拠していました。

しかしながら、戦況が悪化し始めていた日本は、この時既に両島周辺の制海・制空権をアメリカに奪われた状況にありました。

そんな中、この両島に対するアメリカの奪還作戦が進行中であることが明らかになります。

これを察知した日本軍は、島の人員入れ替えを行い、アッツ島に約2,600名、キスカ島に約6,000名の人員を配置します。

そしてこの際、アッツ島の守備隊長に任命されたのが山崎保代大佐(やまさき やすよ)でした。

山崎大佐は、アメリカ軍の両島奪還作戦のために他の地域から赴任して来ましたが、これから赴く任務の内容を充分に理解していた様子で、着任前に家族に宛てて遺書をしたためています。

戦争は補給と士気で行うものと言われていますが、空と海をアメリカに抑えられいましたので、既に補給を期待することは出来ない状態にありました。

山崎大佐の入島自体も潜水艦で秘密裏に行われており、遺書を書いての出陣というのも決してオーバーなことではなかったのです。

画して部隊長も着任し、アッツ島約2,600名の兵士たちは来たるべき決戦の日に向けての準備を始めるのですが、アッツ島の状況は彼らの想像を遥かに超える厳しさでした。

猛烈な寒さと食糧・弾薬の不足、そして飛行場・陣地の建設等の重労働と、戦いが始まる前から日本軍には問題が山積でした。

そんな準備不足の中、アメリカ軍の侵攻が開始されます。

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1943年5月12日、日本軍の想像を遥かに上回るアメリカ兵12,000人が上陸作戦を開始したのです。

対する日本軍は約2,600人、戦いの結果は最初から見えていたのです。

しかしこの戦いでの日本軍の活躍は目覚ましく、一部の戦いではアメリカ軍を圧倒し、後退させたことさえあった程でした。

実はこうした日本軍の活躍の裏には、援軍部隊の到着まで持ちこたえれば、この戦いに勝利出来るという希望があったのです。

この増援部隊の派遣は、札幌北方軍司令部の樋口季一郎陸軍中将(ひぐち きいちろう)の発案により、大本営からの正式な許可も出ていた決定であり、この増援だけがアッツ防衛隊の光明だったのです。

しかしながら、この望みは虚しく潰えることとなります。

大本営より増援の派遣を中止するとの連絡が入ったのです。

それでもアッツ島の日本兵たちは果敢に戦い続けますが、圧倒的な兵力の差には逆らいきれず、徐々に追い込まれて行きました。

そして遂に、その日がやって来ます。

1943年5月29日、生き残った山崎大尉以下、約300名の兵士たちは、これより突撃するとの最後の打電を残し、まともな武器さえ持たない状態で、敵陣に突撃を試みたのです。

その結果は、当然ながら惨憺たるものとなり、生き残った者は僅か28名。

その生存率1%以下と言う、文字通りの玉砕戦(玉と散る)となったのです。

生き残った28名の内の1人が後の取材に対して、「自決あるいは突撃を強要された」という趣旨の発言をしたと伝えられています。

あなたはこの話を聞いて、どのように思われますか?

日本軍は勝ち目のない戦いに兵士たちを向かわせ、約束した援軍も派遣しなかった。

その揚句に、負けると決まれば、自決か突撃を強要した。

当時の日本は何て酷い国だったのか・・・。

そう思うのが当然かもしれません。

しかしながら、この戦いにも闇に葬られた事実が存在するのです。

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まず、大本営が援軍を出さなかったことを、見捨てたというのには疑問が残ります。

当時の日本海軍には物資、人員的に若干の余裕があったことが、見捨てたという疑いの根拠であるようですが、海と空を抑えられている以上、援軍が到着前に大打撃を受けることは必至でしょうから、そこにも苦渋の決断があった可能性があります。

また、援軍を出すと約束した札幌北方軍司令部の樋口陸軍中将は、大本営の援軍中止の知らせに激怒し、アッツ島の救援に行かない代わりに、約6,000名の人員を残すキスカ島への救出作戦を実行することを大本営に約束させたという記録があります。

そして現実に、7月29日にはこの救出作戦は実行に移され、日本は潜水艦3隻を失いながらも、約6000名全員を助け出すという奇跡的な成功を収めているのです。

確かにアッツ島の救援に行かなかった日本軍の行いは酷いことに見えますが、こうした気概を持った者たちが軍部の中にも確実に存在していたことを忘れてはいけません。

これに加えて、アッツ島に取り残された山崎大佐と、救援の断念を伝える樋口陸軍中将の通信もしっかりと記録に残っています。

援軍は送れないと言った樋口中将に対する、山崎大佐の返答は下記のようなものでした。

「戦さする身、生死はもとより問題ではない。守地よりの撤退、将兵の望むところではない。 戦局全般の為、重要拠点たるこの島を、力及ばずして敵手に委ねるにいたるとすれば、罪は万死に値すべし。 今後、戦闘方針を持久より決戦に転換しなし得る限りの損害を敵に与え、九牛の一毛ながら戦争遂行に寄与せんとす。 なお今後の報告は、戦況より敵の戦法及びこれが対策に重点をおく。 もし将来、この種の戦闘の教訓として、いささかでもお役に立てば、望外の幸である。 その期いたらば、将兵全員一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず」

つまり、

戦争をする以上、死ぬのは覚悟している。撤退は望むとこではない。重要拠点のこの島を敵に渡すことこそ罪なのだ。 これからは援軍を待つのではなく、攻撃のみに切り替え、敵に少しでも損害を与えようと思う。 そしてこれからの連絡は、敵がどんな戦法をとって来たか、それにどう備えるべきかに重点を置くことにするから、今後の戦い方の参考にして欲しい。 そして時が来たなら、全軍一丸となって突撃し、その霊はこれからも祖国を守り続けます。

と言っているのです。

援軍を送れない軍に対して、文句一つ言わないどころか、自分たちの戦い方を参考にしてくれといっているのです。

そして山崎大佐はこの通信で宣言した通り、300名の兵を連れてアメリカ軍に突撃を果たすこととなります。

アッツ島 写真

※陸上自衛隊HPより引用

この最後の突撃における山崎大佐の奮戦は敵国のアメリカでも語り草となっており、自ら軍団の先頭に立ち、右手に軍刀、左手に日の丸の旗を持ち突進を続けました。

そして驚愕するアメリカ軍の戦線を次々と突破し、敵陣深くまで切り込んでいったのです。

この際も、アメリカ軍は繰り返し降伏勧告を放送で流していたそうですが、彼らは誰一人として降伏することなく、異国の地に散っていったです。

後年行われた発掘調査においては、突撃した日本軍の先頭に山崎大佐の遺品と遺骨が発見され、この壮絶な突撃が事実であったことが証明されました。

また突撃に際して山崎大佐は、大本営に対して、これから突撃を敢行すること、軍事秘密の漏えいを警戒して無線機を破壊することを伝えて来ていますが、この報せを聞いた昭和天皇は、連絡が届かないのを承知で「最後まで良くやった!」という通信を送らせ続けたといいます。

これがアッツ島玉砕のもう一つの事実なのです。

確かに、援軍を出さなかった大本営のやり方には納得がいかない点もあるかもしれませんが、アッツ島で戦った山崎保代大佐、そして戦死した兵士たちの精神は正に侍の気高さを有しています。

そして、アッツ島と引き換えにキスカ島を救った樋口季一郎陸軍中将、貴重な潜水艦を失いながらも約束を守った軍の上層部。

戦争という狂った状況の中でも、彼らは決して日本人の誇りを失っていなかったのです。

もしアッツ島の守備隊がこれ程の奮戦をしていなけば、キスカ島はもっと早く陥落していたでしょうから、約6,000名の奇跡の救出劇も叶わなかったはずです。

それでもあなたは、山崎隊の決死の突撃が国に強要されてのものだと思いますか?

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歴史は、見方、切り取り方によって大きく印象が変わってしまうものです。

先に述べた生存者の方の証言が、アッツで散った方々の意見を代表しているように聞こえてしまいますが、残りの約2,600人の意見を聞くことは永久に出来ないのです。

私には、繰り返しの降伏勧告を無視し、突撃を行った方々の行動が強制であったとは到底信じられません。

また考えるべきは、この生存者が話した内容の全てを、メディアが伝えているとは限らないという点です。

長い話の一部を切り取り、時には繋ぎ合わせることはマスコミの得意技なのですから。

最後に別のアッツ島生存者の言葉を記させて頂きます。

 

私はもう、二度と戦争はしたくない。

 

 

でも、もし国土を侵されるようなことかあれば、また何時でも武器を取るつもりだ。

 

どうですか?最初の一文のみの場合と、全ての文を読んだ際の感想は、全くの別物になっていませんか。

残念なことに、このような情報の操作が普通に行われているのが、日本のメディアの現状なのです。

このブログをお読み頂いた方々には、あの悲惨な戦いを生き残り、多くの仲間を失った方が残したこの言葉の意味を、しっかりと噛み締めて頂きたい。

あなたはこの壮絶な戦いで亡くなっていった方々の魂を、国に捨てられたら、哀れな亡霊だと思いますか?

それとも、祖国のために身を挺して戦い、散っていった偉大な英霊たちとして手を合わせますか?

極寒の地・アッツ島の戦いで玉砕された約2,600名の方々は何も語ることが出来ません。

それを決めるのは、彼らに命を繋いで頂いたあなた自身なのです。

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